国王の系譜をたどってみる

朝鮮王朝の王は、すべて李(イ)という姓を持った男子。本貫は全州(チョンジュ)である。この本貫というのは、一族の始祖の出身地のことで、その一族の流派を示す重要な身分保証となるものだ。わかりやすくいえば、朝鮮王朝の王は「李」という姓と「全州」という流派を持った一族ということになる。





初代王が育った場所

1392年に朝鮮王朝を作った初代王の太祖(テジョ)は、朝鮮半島東北部の咸興(ハムン)で生まれ育っている。
彼の数代前までは先祖も朝鮮半島西南部の全州に住んでいたのだが、ある先祖が女性問題で高官から睨まれて故郷を追われることになったのだ。それで太祖は咸興の出身となっている。
咸興といえば、当時は辺境。そんな田舎で育ったことで、太祖はたくましい男子に成長することができた。
朝鮮王朝では嫡男の中で一番の年長者が王位を継承するということが原則ではあったが、この原則がそのまま実現したのは、27人の王の中で7人しかいない。つまり、嫡男の中でも年少者が王になったり、側室が産んだ王子が王になったりする例が多かったということだ。
また、王子同士が骨肉の争いを起こして王位を争ったことが何度もある。それだけ王位継承問題は紛糾することが多かったのだ。




それもそのはずである。王は朝鮮王朝の絶対権力者であり、頂上が高ければ高いほど、それをめざす者たちの争いが熾烈になったのである。
しかも、高官たちも自分が支持する王を擁立して出世をめざし、様々に暗躍することが多かった。
いわば、あまりに王に権力が集中しすぎたために、その座をめぐって争いが深刻化するばかりだった。
さらに、王位継承問題を複雑にさせていたのが、朝鮮王朝の病巣とも呼ばれた「党争」である。
これは熾烈な派閥闘争のことだ。官僚たちは儒教的な価値観の解釈によって分裂や集合を繰り返しながら、敵対派閥をつぶすことに血眼になった。その弊害が王位継承問題にも及んだのである。
朝鮮王朝には、クーデターで王宮を追われた王が2人いる。10代王の燕山君(ヨンサングン)と15代王の光海君(クァンヘグン)だ。
燕山君は最悪の暴君として悪政の限りを尽くした。彼が廃位となったのも自業自得であった。




その一方で、光海君は激しい党争の末に王宮を追放されている。彼は一時は暴君と称されたが、歴史研究が進むにつれて、庶民への減税と巧みな外交で朝鮮王朝の窮地を救っていたことが明らかになっている。
光海君は、暴君というより名君と言われても不思議がないほどだ。
光海君を追放した派閥が歴史書などで彼を辛辣に中傷したために暴君と見なされたままだったのである。ただし、光海君も王位を継承する過程で兄弟を殺すという事件を起こしている。
そういう点では評判が良くないのだが、こと政治家としての力量を見ると、成し遂げた業績が多いと言える。
燕山君とは違って、名君の名をほしいままにしているのは4代王・世宗(セジョン)と22代王・正祖(チョンジョ)である。
前者は民族独自の文字であるハングルの創製に指導的な役割を果たしたし、後者は学者も顔負けない博識ぶりで文化の香りが高い政治を行なった。この2人はまさに聖君と呼ぶにふさわしい存在であった。




世宗と正祖は有名なドラマの主人公になっているが、特に正祖を描いた『イ・サン』は名作だった。
しかし、あのドラマでは正祖の毒殺説がまったく描かれなかった。
毒殺説は韓国でも有名な話なのだが、イ・ビョンフン監督はそれで物語が終わると後味が悪いので、あえて毒殺説には触れなかった。
イ・ビョンフン監督はとにかく、ハッピーエンドが好きなのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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