1623年にクーデターを成功させて15代王・光海君(クァンヘグン)を廃位させた綾陽君(ヌンヤングン)。彼はすぐに16代王・仁祖(インジョ)として即位した。しかし、彼の在位中は苦労の連続だった。
他に例がない
仁祖といえば、歴史的には「何度も王宮から逃げ出した国王」という汚名が残ってしまっている。
彼の祖父である14代王・宣祖(ソンジョ)も、豊臣軍の朝鮮出兵の際に王宮から逃げた国王として非難されたが、その宣祖も逃げたのは1回だけだ。
しかし、仁祖にいたっては、なんと3回も王宮から逃げている。
前例どころか、後にもこんな例はない。
朝廷を守るためとはいえ、民衆を見捨てたのは間違いないことで、そういう点でも仁祖の歴史的評価は良くないのである。
1623年に即位した仁祖だが、翌年には早くも「李适(イ・グァル)の乱」が起きている。
李适は、仁祖が光海君を追放するクーデターを起こしたとき、それに加わって功績をあげた武官だった。
しかし、彼は他の同志と比べて、十分な恩賞を受けられなかった。そのことに強い不満を持っていた。ここに伏線があった。
その後、李适は北方守備部隊の指揮官の1人となった。彼があまりに部隊の強化に熱心だったので、都の漢陽(ハニャン)では、「李适が謀反を起こすのではないか」という噂が広まった。
事実、その噂を利用して仁祖を揺さぶろうと画策した対抗勢力もあった。
いずれにしても、李适は謀反を起こす気などなかったのだが、自分が疑われたことに憤り、最後には本当に反乱を起こしてしまった。
李适はなにしろ、最強と言われた北方守備部隊を管轄していた。この軍を使って反乱を起こした李适は、王朝軍を次々に破って都の漢陽に迫った。
命の危険を感じた仁祖は、あっさりと漢陽を捨てて、忠清(チュンチョン)南道の公州(コンジュ)に向かって避難していった。
朝鮮王朝は1392年に建国されたが、王が国内の反乱によって漢陽から逃げるのは初めてだった。豊臣軍の朝鮮出兵のときの宣祖とは、事情がまるで違うのである。
李适に率いられた反乱軍が漢陽を占領したのは、挙兵してから19日目の1624年2月10日であった。
最終的に、反乱軍は王朝軍の巻き返しによって敗れ、李适は部下に殺されている。こうして乱は終わったのだが、あっさりと都から逃げ出したことで、仁祖の評判は非常に悪くなった。
それから3年後、朝鮮王朝は今度は北方の異民族の後金に攻められた。
このときも仁祖は、王宮から逃げて江華島(カンファド)に避難した。最後はなんとか和睦を結んで、朝鮮王朝は滅亡を免れた。
しかし、仁祖は後金を尊重するという和睦条件を守らず、相変わらず明のご機嫌ばかりとっていたので、後金は国号を清と変えた後の1636年12月に12万の大軍で侵攻してきた。
このとき、仁祖は漢陽の南側にある南漢(ナマン)山城にあわてて避難した。
南漢山城での籠城は40日あまりになり、ついに耐えきれなくなった仁祖は、漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)において、清の皇帝の前で、土下座のごとき屈辱的な謝罪をさせられた。
以上のように、3度も王宮から逃げて保身に執着した仁祖。民衆が強い不信感を抱いたのも当然だった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)