王位の強奪をめざした首陽大君(スヤンデグン/後の世祖〔セジョ〕)は、1453年に甥の端宗(タンジョン)を補佐していた忠臣たちを次々に殺した。この事件は歴史的に癸酉靖難(ケユジョンナン)と呼ばれている。その次に首陽大君は何をしたのか。
大義名分がない政変
首陽大君側が大臣たちをすぐに殺したのは完全な越権行為である。仮に反逆者に仕立てあげたとしても、まずは捕らえて自白させるのが常識だった。法で正々堂々と裁くためには絶対にそうすべきなのである。
徹底した中央集権体制だった朝鮮王朝では、死刑を言い渡せるのは王だけだった。王にしか、死刑判決を下す権限がなかったのだ。
それも法に照らして決められるものであり、いくら王でも確かな証拠がなくして簡単に処罰できるものではなかった。
しかし、首陽大君は金宗瑞(キム・ジョンソ)と主要な大臣たちと弟の安平大君(アンピョンデグン)を何の取り調べもしないまま殺している。
証拠が何もなかったからだ。
結局、反逆の全貌を明らかにしなかったのは、それだけ殺された人たちに罪はないという反証になるのではないか。
癸酉靖難は首陽大君の野心をかなえるための一方的な政敵虐殺だ、という評価が後に残ったのは、こういうことが影響している。
癸酉靖難が正当性を持てないということは、この事件で生まれた首陽大君を中心とする政権自体に大義名分がないということになる。
正当性のない政権は歪曲された道へ進んでしまう。それが首陽大君が後世に汚名を残す理由となった。
癸酉靖難で殺されなかった人たちも、後々になって多くが死んだ。反逆者にされた人の家族や親戚にも重い刑罰がくだされた。
反逆者の父と15歳以上の息子は殺され、14歳以下の息子は官奴(官庁に属する奴隷) になり、また反逆者の妻や娘や妾たちはみんな功臣たちの所属になった。つまり、女性は自分たちの仇のもとに送られたのだ。
政変の次の日、首陽大君は王朝のすべての政治的権力を手中におさめた。彼が得た官職は、それ以前もそれ以後も誰も持てなかったほど強力だった。いわば、総理大臣であり王の顧問であった。
また、政府の人事権と国の軍事統帥権も握っていた。一応、王が任命するという形は取っていたものの、常識的には存在できない、いや、存在してはならないほどの職責を首陽
大君は独り占めにしたのだ。
それに加えて、首陽大君は特別に王室護衛部隊100人の警護も受けるようになった。すでに臣下の地位は越えたともいえるだろう。
同時に、首陽大君と共に政変で功を立てた人たちは、信じられないほど出世した。これで、首陽大君の意のままに動く新しい政権が誕生した。
文=康 熙奉(カン ヒボン)