奇皇后は、中国大陸を支配する元の皇帝に寵愛されて、我が子を皇太子にまでした。その権力は絶大で、高麗王朝でも奇皇后の一族が政治を牛耳るようになった。しかし、時代は激しく動いていた。
奇一族に対する不満が噴出
高麗王朝で悪政を行なった奇一族は、他人の土地を強奪して、その住人を強制的に奴婢にした。
もう、やりたい放題であった。
しかし、奇一族の栄華も長くは続かなかった。
奇一族が高麗王朝で政治を牛耳ることができたのは、元で奇皇后が権力を持っていたからなのだが、その元の国力か衰退していった。
こうなると、高麗王朝でも奇一族に対する不満が噴出した。その筆頭だったのが、31代王の恭愍王(コンミンワン)だった。
彼は復権の機会をうかがっていた。
すると、奇皇后の兄の奇轍(キ・チョル)は、恭愍王を排除しようと画策した。しかし、奇轍の行動は恭愍王にすっかりもれていた。
すかさず、恭愍王が先に動いた。
機先を制された奇轍は、反乱の汚名を着せられて絶命した。
奇皇后は激怒した。
彼女は大軍を組織して高麗王朝を攻めた。
だが、元の軍隊の弱体化を奇皇后は予想していなかった。奇皇后が送った軍は、恭愍王が指揮する高麗軍にあっさり負けてしまった。
もはや高麗王朝ですっかり影響力を失った奇皇后。それなのに、彼女はそのことを認めなかった。
奇皇后は元の皇帝のトゴン・テムルに強要して、我が子のアユルシリダラを皇帝に就けようとした。
トゴン・テムルは奇皇后を寵愛していたが、さすがに譲位を強く拒んだ。
こうした混乱の中で、元の朝廷も内紛状態に陥ってしまった。
1364年には奇皇后に歯向かう勢力がクーデターを起こし、首都が占領されて奇皇后も捕虜となった。
このときは穏健派の調停によって、奇皇后もようやく解放されたが、権力の凋落は明らかだった。
落ち目の奇皇后だったが、事態が急転した。
トゴン・テムルの正室だったバヤン・フトゥクが亡くなり、側室だった奇皇后が念願の皇后になった。
それは、つかのまの皇后であった。
すでに、中国の各地で漢民族による反乱が勢いを増し、1368年には新たに「明」が建国された。
元は明の怒濤の攻撃を防ぎきれず、皇室がモンゴル高原まで逃げて、そこで新たに「北元」を名乗った。
この北元の皇帝となったのが奇皇后の息子のアユルシリダラだ。
すでにトゴン・テムルは逃避行の際に命を落としていた。
「息子が皇帝になる」
悲願を成就した奇皇后はどうなったのか。
彼女もまた、元が逃げたときに行方がわからなくなっていた。
果たして、奇皇后の最期はどのようなものだったのか。
歴史上から彼女の存在が抹殺されてしまった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)