光海君は兄と弟を殺したのかをなぜ殺したのか

宣祖(ソンジョ)は光海君(クァンヘグン)を世子に指名したあとも、実はまだ嫡子にこだわっていました。最初の正室が亡くなった後、彼は仁穆(インモク)王后と再婚しました。その仁穆王后が、1606年に宣祖の嫡子を産みます。それが永昌大君(ヨンチャンデグン)です。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより



骨肉の争い

宣祖が長生きしていれば、仁穆王后が産んだ永昌大君が光海君に代わって世子になっていたことでしょう。しかし、宣祖は1608年に世を去ってしまいました。
実母である仁穆王后としても、ぜひ永昌大君を次の王にしたかったことでしょう。しかし、永昌大君はまだ2歳で言葉も満足に話せません。これでは、王の後を継ぐことはできません。
予定通り1608年に光海君が15代王として即位しました。明は「兄がいるのになぜ弟が王を継ぐのか。しかも、正室が産んでいる息子もいる。光海君が王になる根拠が希薄だ」という理由で、なかなか王位継承の許可を出しません。
むしろ、明が調査団を派遣することになりました。こういう事態となり、光海君は焦りを感じました。
光海君を支持する政治的な派閥が大北(テブク)派です。
大北派は光海君が王であり続けるかぎり大出世を果たせるので、自分たちの地位を守るために暗躍します。その中心で動いていたのが金介屎(キム・ゲシ)という女官です。




1609年、大北派は光海君への批判を繰り返していた兄の臨海君(イメグン)を殺します。さらに1613年、永昌大君が仁穆王后の父親と図って光海君の王位を奪おうとしたという容疑を作り出します。その挙げ句、大北派は仁穆王后の父親を死罪にして、母親を奴婢(ヌヒ)にしてしまいます。
そして、永昌大君を江華島(カンファド)に流して、最後にはオンドル(床暖房)を熱して永昌大君を蒸し殺します。永昌大君はまだ8歳という幼い年齢で、母親の名前を絶叫しながら命を奪われました。このとき、仁穆王后は西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)という離宮に幽閉されていました。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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