王朝盛衰史7「文定王后の悪政」

11代王の中宗(チュンジョン)と文宗(ムンジョン)王后との間には、1532年に息子が生まれます。この息子を文定王后は溺愛しましたが、中宗にはすでに二番目の正室だった章敬(チャンギョン)王后との間に生まれた長男がいて、この長男が世子(セジャ/王の正式な後継者)になっていました。結果的に、三番目の正室である文定王后の息子が王になることはできません。





度を越した親孝行

文定王后は希代の悪女です。
彼女は自分の息子を王にするために、世子を何度も殺そうとします。しまいには、世子の寝室に火を放って焼死させようとしました。
それなのに、世子は継母である文定王后を怨んだりしません。むしろ、「母が自分を殺そうとするなら、儒教の教えにのっとって、孝を尽くすためにこのまま死んでみせる」と言って、火事になっても逃げないのです。
確かに親孝行なのですが、度を越えすぎています。やはり、放火されたらすぐに逃げなくてはいけません。
中宗は1544年に56歳で亡くなり、世子が12代王・仁宗(インジョン)として即位します。
名君になる素質は十分だったのですが、仁宗は在位わずか8カ月で急死します。継母の文定王后に毒殺された可能性が高いと見られています。




実際に、文定王后を訪ねた際に餅を食べたのですが、その直後から重病になって命を落としています。
朝鮮王朝では王が毒殺されたという疑惑がかなり多いのですが、仁宗の場合が一番可能性が高いといわれています。
韓国時代劇『女人天下』では、文定王后が直接指示をしたわけではなく、手先の鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)が気を回して仁宗が飲む漢方薬に毒を入れたというふうに描かれていました。
あのドラマの場合は鄭蘭貞が主人公になっているので、彼女の関与を強調していたのですが、「朝鮮王朝実録」を読むと、仁宗が病床についたあとに文定王后がジッとせずにあちこちに出没して宮中を混乱させるような動きをしています。
真実はわかりませんが、仁宗の殺害を何度も狙った文定王后が最後に奥の手を使ったということが十分に考えられます。
いずれにしても、仁宗が30歳で亡くなったために、文定王后の息子が即位しました。それが13代王の明宗(ミョンジョン)です。




可愛い息子を念願の王にしたのですから、文定王后としてはさぞかし本望でしょうが、それだけで満足する女性ではありません。自分が明宗に代わって長い間政治を牛耳り、敵対勢力を根こそぎ粛清しています。
その反動で、国の政治は乱れ、賄賂が横行しました。16世紀の中盤は朝鮮半島でも凶作が続いて餓死者が続出したのですが、それにかまわず文定王后は自分の勢力保持だけに腐心しました。
粛清と餓死で死んでいった人の数は膨大なはずです。その責任のほとんどが文定王后にありました。
彼女は、1565年に世を去ります。
母親が死んで明宗もようやく一本立ちする機会を得たのですが、それからわずか2年で明宗も息絶えます。
母親があまりに悪政をしたために、心がやさしい明宗はさぞかし心苦しかったのでしょう。明宗も、権力志向が強い王妃が暗躍する朝鮮王朝裏面史の犠牲者と言えるかもしれません。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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