運命の1910年
朝鮮半島は、日本と清の利害が対立する場所になり、後にロシアもやってくる。地政学的に強い国に囲まれて朝鮮王朝は不利だった。
1894年になると、「東学党の乱」と呼ばれる甲午農民戦争が起きる。東学党とは、東洋の学問を追求しようとする人たちの一派で、農民と一緒に反乱を起こし、朝鮮半島の西南部から進撃を開始した。これに乗じて日本と清の間で日清戦争が起こる。その結果、日本が勝って下関条約を結んだ。
このとき、日本が勝った条件として、清は完全に朝鮮半島から追い出された。1895年には、日本の勢力によって明成皇后も暗殺された。
日本が清を追い払ったことで、朝鮮王朝は中国に何の気兼ねもなくなり、「中国が皇帝ならうちも皇帝だ」と強気になった。1897年に国号を大韓帝国に変えて、高宗は初代皇帝を名乗った。
大院君は1898年に世を去る。その後は、ロシアが朝鮮半島に南下する構えを見せた。特に、冬でも海面が凍らない港がほしかったのである。
ロシアが南下政策を進めたことで、日本とロシアの利害が対立して1904年に日露戦争が勃発する。結果は、日本が勝ち、1905年にロシアの勢力を朝鮮半島から駆逐した。すかさず保護条約を結んで、朝鮮半島の外交権を奪う。
次々に日本は朝鮮半島の支配を強めていくのだが、1907年にハーグ密使事件が起きる。オランダのハーグで万国平和会議が開かれたときに高宗が密使を送って、「日本の干渉は不当である」と訴えようとした。ただし、朝鮮半島はすでに日本によって外交権を奪われていて、独自に主張する権利がなく、密使事件は失敗に終わる。
日本は、高宗に圧力をかけて退位を迫った。高宗は自ら皇帝の座を降りて、明成皇后との間に生まれた純宗(スンジョン)が朝鮮王朝の27代王となった。
しかし、純宗の在位はわずか3年だった。1910年、日韓併合によって朝鮮王朝は完全に滅んでしまった。
(終わり)
文=康 熙奉(カン ヒボン)