26代王・高宗(コジョン)の父であった興宣大院君(フンソンデウォングン)が、1873年に明成(ミョンソン)皇后によって失脚させられてしまい、実権を握っていた明成皇后が朝鮮王朝の開国に踏み切った。その後、朝鮮王朝はアメリカ、フランス、ロシアと不平等な通商条約を結ばざるをえなくなった。
朝鮮半島の利権をめぐる争い
1882年には「壬午(イモ)軍乱」が起きている。旧式の軍隊が「給料が出ない」「食事が悪い」と抗議して、日本公使館を襲ったりした。明成皇后ではもう収拾がつかなくなり、大院君が復帰して騒ぎを鎮めた。このときに日本と清は軍を出していて、朝鮮半島を舞台に一触即発の状態になった。
朝鮮王朝はもともと清を宗主国として崇めていた。朝鮮半島では清の影響力が強く、そこに日本が入ってきたのである。朝鮮王朝の近代化が遅れていることに危機感を持った人たちは日本に留学した。日本は明治維新を成功させたので、そのスタイルで朝鮮半島の近代化を図ったのである。特に福沢諭吉などに教えを受けた親日派の人たちが、1884年に政変を起こし、王宮を占拠した。
このときは清の軍隊が介入して3日で政変は終結した。文字通り3日天下だった。このときに日本公使館が焼き払われ、朝鮮王朝は賠償金を請求された。
1885年に睨み合っていた日本と清が天津条約を結び、朝鮮半島から軍隊を撤退させた。再び朝鮮半島に兵を出すときは通告し合おうと決めるのだが、両国は隙があれば再出兵をして利権を取ろうと牽制しあっていた。
(ページ2に続く)