当時の日本と朝鮮半島の関係はどうだったのか。徳川幕府が倒れて明治維新になったのが1868年である。それまでの朝鮮王朝は徳川幕府と仲が良く、265年間に朝鮮通信使が12回来日していた。朝鮮王朝は、「徳川幕府を倒した明治維新政府はどうなのか」と疑問を感じていた。一方、明治維新政府も「徳川幕府と仲の良かった朝鮮王朝とは付き合いたくない」という雰囲気を出していた。
国書の受け取りを拒否
明治維新政府は、1868年12月に「我が国は、天皇を中心とする政治体制になりました」という国書を送るが、そこには朝鮮王朝が絶対に許せない言葉が入っていた。その国書を見た瞬間に激怒して、大変な騒ぎになったのである。
その言葉は何かというと、天皇の「皇」と、天皇の命令を意味する「勅(チョク)」という2文字だ。朝鮮王朝の考え方では、「皇という字は皇帝と同じ意味で、それを名乗れるのは中国だけ」と考えていた。朝鮮王朝の君主は、中国に気兼ねして、皇帝より格下の「王」を名乗っていたのである。
朝鮮王朝がかつて徳川幕府に国書を出すときは、必ず将軍を国王と称していた。儒教は序列が一番大事なので、王という間柄であれば、序列が同じという立場で付き合えるのである。
朝鮮王朝側は、「中国からそのような国書をもらうのはいいのだが、日本から送られてくるのはとんでもない」と考え、明治維新政府の国書を受けとらなかった。
(ページ2に続く)