清での8年間に及ぶ人質生活を終えて、1645年2月に母国に帰ってきた昭顕(ソヒョン)世子。しかし、わずか2カ月で亡くなってしまった。あまりに不可解な急死。毒殺を疑われるのも当然だった。
歴史書も毒殺疑惑を提起
朝鮮王朝の正式な歴史書の「朝鮮王朝実録」。1645年6月27日の項では昭顕世子の遺体について次のように記している。
「世子は帰国してからすぐに病気になり、それから数日で世を去った。からだ全部が黒ずみ、耳・目・口・鼻などの7つの穴から鮮血が流れていた。まるで薬物で中毒になって死んだ人のようだった」
ここまで書かれているので、毒殺を疑われるのも当然だった。
そして、疑惑の張本人と目されたのが医官の李馨益(イ・ヒョンイク)だった。
仁祖から寵愛された側室の趙(チョ)氏。数々の悪行に手を染めた悪女だ。
ドラマ『華政(ファジョン)』にも、狡猾な女性として登場している。
実は、李馨益は趙氏と親しい医官であった。
彼は、もともと趙氏の実家に出入りしていた医者なのだ。その腕を見込んだ趙氏は、推挙して王族の医官に送り込んだ。
李馨益が得意だったのが鍼治療である。
彼は仁祖にも鍼治療を施していた。
そして、帰国した昭顕世子に鍼治療をしたのも李馨益だった。
しかし、昭顕世子は急死してしまった。
「李馨益が鍼に毒を塗って昭顕世子を毒殺した」
そういう噂が宮中で広まった。
不正を調べる役所も疑惑を究明しようとした。
李馨益が鞠問(クンムン/重大な罪の容疑者を厳しく取り調べること)を受けるのも避けられない情勢となった。
しかし、仁祖が鞠問を許可しなかった。仁祖は、昭顕世子の死の真相を明らかにすることにあまりに消極的だったのだ。
さらに、不可解なことがある。
普通、王族の重要人物が亡くなると、主治医は落ち度がなくても責任を取らされて処罰された。
だが、李馨益は処罰を免れた。それも、仁祖が李馨益をかばったからだ。
なぜ、仁祖がそこまでする必要があったのか。
おそらく、彼が昭顕世子の毒殺事件にかかわっていたからであろう。
趙氏は昭顕世子と仲が悪かった。しかも、趙氏は仁祖の息子を産んでいて、仮に息子を王にしたいと強く願えば、一番邪魔だったのが昭顕世子だった。
つまり、趙氏には毒殺を進めなければならない有力な動機があった。
しかも、鍼治療を行なったのが、自分の息がかかった医官である。かぎりなく「黒」に近い「灰色」だ。
それでは、仁祖はどうなのか。
常識的には、王が世子を毒殺するというのは考えられないのだが、仁祖には常識が通用しない。昭顕世子が亡くなったあとの仁祖の態度を見ると、非常に疑わしい。
なによりも仁祖は、昭顕世子によって自分が王位を追われるという恐怖心を強く抱いていた。
「世子さえいなければ……」
仁祖がそう思っても不思議はない。
仁祖と趙氏が共謀して李馨益に毒鍼を打たせた、という可能性はかなり高い。
文=康 熙奉(カン ヒボン)