光海君から仁祖へ
李舜臣が率いた水軍は屈強な亀甲船を操って海上で豊臣軍に次々に勝って、日本からの補給を絶った。これで豊臣軍は苦境に陥る。
結局、1598年に豊臣秀吉が世を去ったのを機に、豊臣軍が引き上げて戦乱は終わった。
これが日本で言う「文禄・慶長の役」だが、この戦乱によって朝鮮王朝は大変な被害を受けた。捕虜として日本に連れ去られた人も5万人にのぼる、という推計もある。
宣祖は1608年に世を去って、後を継いだのが15代王・光海君(クァンヘグン)である。彼は戦乱で荒廃した国土の復興や王宮の再建に力を尽くす。また、中国大陸の新しい覇者となる後金(後の清)との外交や、一般庶民の減税などでも成果をあげている。
しかし、王になる過程で兄弟たちと骨肉の争いを起こしており、その恨みを買ってしまったことが致命傷となった。1623年にクーデターを起こされて王宮を追放されてしまう。結局、光海君がめざした政治は途中で頓挫した。
光海君に代わって新しい王となったのが16代王・仁祖(インジョ)である。しかし、彼は外交に失敗し、1637年1月に清に屈伏した。さらに屈辱的な謝罪を強いられ、朝鮮王朝は清の厳しい干渉を受けることになる。
当時の朝鮮王朝は、まさに苦難の連続だった。
(第8回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)