後世で称賛された「死六臣」
成三問と同志たちが捕まり、拷問を受ける。彼らは優秀な人ばかりだったので、世祖も「殺すには惜しい」と考え、「自分が王であることを認めれば許そう。余に仕えよ」と持ちかける。
しかし、成三問たちは処刑されることがわかっていても世祖を罵倒する。世祖は激怒して、彼らを極刑にした。
彼らだけではない。父や息子も処刑されるし、妻や娘は奴婢(ぬひ)にさせられて、一族が滅ぼされるのである。そんな事態を覚悟のうえで世祖の暗殺を狙った高官たちは、その忠義の心を評価されて後に「死六臣」と称賛された。
7代王・世祖は「死六臣」の事件があったあと、端宗が生きていると同じように自分の暗殺を狙う者が出てくると警戒し、端宗を死罪にしている。1457年のことだ。端宗はわずか16歳で絶命させられたのである。
あまりにも非道だった世祖。朝鮮王朝の法体系を整備した功績があるが、人間的には冷酷だ。晩年には端宗の母が夢に出てきて「よくも私の息子を殺したな」と世祖にツバを吐いた。それが原因で世祖が重い皮膚病を患ってしまったという話もある。
それだけでなく、彼の息子は2人とも19歳で急死していて「甥を殺した祟りだ」と言われたりしている。
世祖の次の王位は、長男が早世していたので次男が継いだ。それが8代王の睿宗(イェジョン)だ。しかし、彼も19歳で亡くなってしまったので、王の後継者問題が混迷する。本来なら、睿宗の息子が王位を継ぐことが自然なのだが、世祖の正室の貞熹(チョンヒ)王后の意図が通って、先に亡くなった長男の二番目の息子が9代王に推挙された。それが9代王の成宗(ソンジョン)である。
実は成宗には兄がいたが、弟である自分が王になった。かなりの異例ことだが、それほどに成宗には王になる素養があったということなのだろう。
(第5回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)