暴政の限りを尽くした10代王の燕山君(ヨンサングン)は1506年9月に王宮から追放された。政変の主導者は、燕山君によって実姉を死に追いやられた朴元宗(パク・ウォンジョン)、左遷の憂き目に遭った成希顔(ソン・ヒアン)。彼らは、次の王に燕山君の異母弟だった晋城大君(チンソンデグン)を擁立した。
「甲子士禍」
燕山君は、幼いころから気性が荒く、宮中での評判も悪かった。そんな彼が1494年に10代王として即位した。最初の頃は大人しく国政を行なっていた。しかし、徐々にその本性が姿を現わす。
燕山君は、それまで重用されていた士林(サリン/熱心な儒学者)たちを嫌った。口やかましく、勉学や正しい政治を強要するからだ。
嫌気がさした燕山君は、士林派が世祖(セジョ)の王位強奪を非難する文を書いたと聞くと、それを口実に多くの士林派を処罰した。
こうなると、燕山君の周りでは、取り入って権力の蜜を吸おうとする奸臣たちが跋扈し、国政は乱れに乱れた。
燕山君の母は死罪となって世を去ったのだが、その死の真相は隠されていた。しかし、出世欲にかられた奸臣の1人が、その真相を燕山君に報告してしまう。驚愕した燕山君は、母の死に関わった者のすべてを標的にし、徹底的な虐殺を始めた。この事件を「甲子士禍(カプチャサファ)」と言い、多くの罪なき人の血が流された。
燕山君の暴政はどんどん酷くなり、国の財源は枯渇。庶民たちは飢えに苦しむようになった。
そんな状態でも、燕山君は毎日のように贅沢な宴会を開き続けた。力なき人々は、燕山君の統治が終わるのを願うことしかできなかった。
不満が高まると、燕山君の王位を剥奪しようとする動きが各地で起こり始める。もっとも大きなクーデターを企てたのが、朴元宗(パク・ウォンジョン)だった。
燕山君に恨みをもつ者は多かったが、林元宗の怒りは格別だった。
彼の姉は燕山君の伯父に嫁いでいた。
しかし、並はずれた美貌をもつがゆえに、燕山君に犯されてしまった。その結果、自害に追い込まれた。
林元宗は復讐を誓った。彼は同志の成希顔(ソン・ヒアン)と一緒に、燕山君廃位の計画を練り始めた。
彼らは仲間を集め、1506年9月1日を決行日に選んだ。大義名分を得るために燕山君の異母弟である晋城大君(チンソンデグン)を新たな王として擁立することにした。しかし、当の晋城大君はそのことを知らなかった。
クーデターの夜、何も知らない晋城大君の屋敷に数多くの人影が見えた。普段から燕山君に脅迫まがいの嫌がらせを受けていた彼は、それが異母兄からの刺客だと思い、死を覚悟した。
しかし、いつまでたっても攻め込んでこない。その結果、晋城大君はようやくクーデターの計画を知った。
一方、王宮に攻め込んだ林元宗たちは、驚くほどあっさりと燕山君のいる場所まで辿りついていた。クーデターの軍が突入すると、場内の兵士たちは我先にと逃げ出してしまったからだ。
命を賭けてまで燕山君を守ろうとする者はいなかった。その後、燕山君は江華島(カンファド)に配流となり、2カ月後に31歳で人生を終えた。
晋城大君は王位に就くことを嫌がったが、彼の母である大妃の説得に折れ、11代王・中宗(チュンジョン)として即位した。
このように成功した1506年の政変を「中宗反正(チュンジョンバンジョン)」と言う。
この「反正」とは、「間違いを正す」という意味だ。