歴史に残る重要な出来事/第8回「文宗の不覚」

名君として名高い4代王・世宗(セジョン)の長男として生まれた文宗(ムンジョン)。世宗が即位して3年後の1421年に7歳で世子として指名された。それから世宗が亡くなるまでの29年間、文宗は世子として過ごしたのだが、世宗統治時代の最後の8年間は文宗が世宗の政治を補佐している。世宗が極度に体調を悪化させたからである。

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「早く次の後継者を!」

世宗の政治を補佐していたときに文宗が証明したのが、統治能力の高さである。父に似て学問を好んだ文宗は大変な勉強家であり頭脳明晰だった。
そんな文宗は、幼い頃から世宗が重用した学者たちとも親しく過ごした。さらに、温和で柔軟な性格によって人望も厚かった。しかし、生来の病弱な体質は克服することができなかった。
そのことは父である世宗も理解していた。後を任せる世子が長生きすることは無理だろうと感じた彼は、早い段階から次の後継者を作るように勧めた。
これは文宗が病弱なのを見越して、彼の兄弟たちが自身の権力を強化していたことにも原因があった。
世宗は、文宗の後に、二男・首陽大君(スヤンデグン)と三男・安平大君(アンピョンデグン)による王位継承争いが激化することを危惧していた。
「頼りの世子は病弱で長くないだろう。このまま世孫が生まれなければ王位をめぐって乱れてしまう……」




こう考えた世宗は文宗の結婚を急がせた。
文宗は13歳で初めての妻をめとることになった。相手は名家出身の美女で文宗より4つ歳が上だった金氏(キムシ)である。
しかし、父の心配を理解していたとはいえ、まだ幼かった文宗は女性に興味を持つことができず、金氏との結婚生活はうまくいかなった。
ところが、世子に嫁いだ女性にとっては、息子を産むことは将来的に王の母になることを意味する。金氏は世子に嫁ぐことで一族の命運までも背負っていたのだ。
強い使命感による焦りは、金氏から余裕を奪っていき、宮中で蛇やコウモリを干して粉末にしたものを密かに作ってばかりいた。これは、今でいえばフェロモンを出しそうな秘薬だった。しかし、噂が噂を呼び、金氏は魔女のように言われるようになった。
金氏としては、子を授かるためのまじないのつもりだったのだが、こうした怪しい行動はすぐさま世宗に報告された。顔をしかめた世宗は、ついに金氏を離縁して王宮から出してしまった。
王の子を産めなかったばかりか、実家に帰されてしまった金氏。彼女の父は一族の不名誉だと激怒して、なんと娘の命を奪ってから自決した。いわば心中なのだが、あまりに不幸な結末となった。




最初の妻を世宗が追い出してしまったので、文宗は次に奉氏(ポンシ)と再婚した。ただ、この女性にも文宗は関心を示さなかった。
寂しくて仕方がなかった奉氏は、なんとか文宗の気を引こうとして積極的に誘いをかけるのだが、むなしく失敗に終わるだけだった。
意気消沈した奉氏は、やがて禁断の果実に手を伸ばすことになった。それは宮中で厳禁されていた同性愛だった。
そのことが露見し、奉氏もまた離縁されてしまった。あわれなことに、奉氏も実家に戻ったあとで自害せざるをえなくなった。
2人の妻を不幸な死に追いやってしまった文宗。後継者を作らなければいけない世子として失格なのだが、世宗は怒りを抑えて息子に側室を持たせることにした。
それは複数に及んだが、その中で文宗が一番気に入ったのが顕徳(ヒョンドク)王后だった。
彼女は文宗の娘を産み、1441年には男子を出産した。後の6代王・端宗(タンジョン)である。この出産は世宗を大いに喜ばせる慶事だったが、その直後に不幸が起きた。出産後に体調を崩した顕徳王后が亡くなってしまったのだ。




すでに彼女は正室に昇格していたのだが、文宗は愛妻の死を心から悼み、以後は正室を持とうとしなかった。これは王室では異例なことだった。というのは、王は妻が亡くなったあとにかならず10代の娘を後妻にめとるのが慣例だったからだ。この一事をもってしても、文宗がいかに顕徳王后権氏を寵愛していたかがわかる。
しかし、文宗はわずか在位2年で1452年に亡くなり、後を継いだ長男の端宗は、1455年に叔父の首陽大君に王位を強奪されてしまった。
そのことを文宗は草葉の蔭でどう見とったのか。彼の人生は「不覚」の連続だった。

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