15代王の誕生
宣祖は光海君を世子に指名したあとも、実はまだ嫡子にこだわっていました。最初の正室が亡くなった後、彼は仁穆(インモク)王后と再婚しました。
その仁穆王后が、1606年に宣祖の嫡子を産みます。それが永昌大君(ヨンチャンデグン)です。宣祖が長生きしていれば、仁穆王后が産んだ永昌大君が光海君に代わって世子になっていたことでしょう。
しかし、宣祖は1608年に世を去ってしまいました。
実母である仁穆王后としても、ぜひ永昌大君を次の王にしたかったことでしょう。しかし、永昌大君はまだ2歳で言葉も満足に話せません。これでは、王の後を継ぐことはできません。
予定通り1608年に光海君が15代王として即位しました。明は「兄がいるのになぜ弟が王を継ぐのか。しかも、正室が産んでいる息子もいる。光海君が王になる根拠が希薄だ」という理由で、なかなか王位継承の許可を出しません。
むしろ、明が調査団を派遣することになりました。こういう事態となり、光海君は焦りを感じました。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)