韓国と交流があった土地を訪ねて(第8回/百済寺跡・鬼室神社2)

悲劇的な内紛

福信は生まれながらの真の武将であり、軍事面でも統率力に長けていた。一方、幼くして日本に渡って30年近くも異国に住んだ豊璋は、頭脳明晰で学問には秀でていたが、軍事のことはわからなかった。
王として君臨し、軍事面は福信に任せておけば特に問題にならなかったのだが、豊璋は自ら軍を掌握しようとした。
しかし、豊璋が福信の意に反して行なった軍事的な作戦は失敗が多く、百済復興軍の勢いをそぐ結果になっていた。
福信と豊璋の対立は決定的となり、いざこざが絶えなくなった。その中で起こったのが、福信が道深法師を殺害するという出来事だった。
道深法師は、福信の協力者であり名参謀であったのだが、その協力者を福信は殺してしまった。
一説によると、道深法師が豊璋にそそのかされて福信に背信的な行為をしようとしたことが原因とも言われている。




いずれにしても、信頼する道深法師まで殺してしまった福信の刃の先は、次に豊璋に向かうのも明らかだった。
そうした危険を察知した豊璋は一体どうしたか。
韓国と日本に残る歴史書から見てみよう。
朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、次のように記されている(なお、「豊璋」のことは「扶余豊」と表記されている)。
福信はすでに権力を専横し、扶余豊と互に猜忌するようになり、福信は病いだと称して地を掘ってつくった部屋に寝て、扶余豊が病気見舞いに来れば、とらえて殺そうとした。扶余豊はこれを知って、みずから信頼する部下をひきいて、福信を不意に襲って殺した。
一方、『日本書紀』には、もっと生々しい記述がある。『日本書紀』の天智紀にある記述を現代語に訳してみよう。
百済王の豊璋は、福信が謀反を起こすと疑い、福信の掌に穴をあけて縛った。それからは、どうしたものかと思案し、配下の者たちに「福信の罪はこの通りだ。斬るべきかどうか」と問うたところ、執得という家臣が「この反逆児を許してはいけません」と言った。激怒した福信は執得に唾をかけて「くさった犬のような頑固者め!」と罵倒した。豊璋は屈強な者に命じて福信を斬り、その首を酢漬けにした。




豊璋が福信を殺したという事実は同じでも、その過程の記述では『三国史記』と『日本書紀』で違いがある。『日本書紀』のほうが豊璋に好意的なのは、豊璋が日本の朝廷と関係が深かったからだろう。歴史書といっても、結局は書き手の意思によって、記述はいかようにも変わるのである。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

韓国と交流があった土地を訪ねて(第1回/埼玉・高麗1)

韓国と交流があった土地を訪ねて(第2回/埼玉・高麗2)

韓国と交流があった土地を訪ねて(第9回/百済寺跡・鬼室神社3)




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