今でも日本の各地に朝鮮通信使の足跡が残っているが、その中でも鞆の浦の福禅寺は特に重要である。なぜなら、一行はここから見た瀬戸内海の景観を愛し、様々な書を残しているからだ。その文面から、当時の朝鮮通信使の人たちの心情を察することができる。まさに歴史の証言を保管する場所だといえるだろう。
「日東第一形勝」
福禅寺は平安時代の天暦年間(950年頃)に創建されたといわれている。鎌倉時代から室町時代に隆盛を誇った寺で、場所柄、航海安全を祈願する人が多かった。江戸時代も寺格が高く、朝鮮通信使の宿舎や休憩場所として重宝された。
今は本堂にその面影があるとは言いがたいが、海に面した大広間を訪れる人は少なくない。なんといっても、大広間から瀬戸内海の風光明媚な景観が一望できることが大きい。朝鮮通信使の一行もその景観をいつも絶賛していた。それが、「日東第一形勝」という揮毫につながったのだが、それが生まれた際の出来事が記録されている。
それは、1711年に来日した第8回目の使節団のときだった。正使は趙泰億(チョ・テオク)、副使は任守幹(イム・スガン)、従事官は李邦彦(イ・バンオン)である。
彼らは酒を飲みながら談笑にふけっていた。話題は、道中で最も景色が美しい場所について及び、大方の意見では、福禅寺から見た瀬戸内海の風景が一番だということになった。
けれど、「江戸までの遠路をあわただしく往復している身。ゆっくりと景色を愛でる余裕がないとはいえ、他にもこの景色に対抗するところがあったのでは?」という声も起こっていた。
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