瀬戸内海の潮待ち港
なぜ、鞆の浦は栄えたのか。
地元の人に話を聞いた。
かつて、海上建造物の建設に従事していたという60代の男性が、鞆の浦の地理的な特性について詳しく教えてくれた。
「鞆の浦は昔から潮待ち港として栄えました。瀬戸内海のちょうど中間に位置していて、ここで潮の流れが変わるんですよ。なにしろ、干潮と満潮では3m以上も差があって、山口県のほうへ流れる潮と、兵庫県のほうに流れる潮が分かれます。船はここで待機しながら、潮の様子を見きわめるわけです。朝鮮通信使の船がここに宿をとったのも当然でしょう。景色を堪能しながら、いい潮になるのを待つわけですから、なかなか優雅ですよね。多くの船が集まるので町も賑やかになり、昔は遊廓もありました」
こうした話を聞いても、鞆の浦が瀬戸内海の中でも特に重要な場所であったことがよくわかる。
けれど、交通手段が鉄道や車が主になり、鞆の浦の立地条件も必然的に変わらざるをえなくなった。
人の出入りは少なくなり、今は静かな海辺の町になっている。それがかえって、過去を振り返るのにふさわしい哀愁を呼び起こしてくれる。
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韓国と交流があった土地を訪ねて(第7回/百済寺跡・鬼室神社1)