クーデター勃発
永昌大君の母親である仁穆王后は、愛する我が子を殺されただけでなく、自らも王の母を意味する大妃(テビ)という身分を奪われて、慶運宮(キョンウングン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されてしまう。朝鮮王朝は、儒教を国教にしていたので、その光海君の行為は決して許されることではなかった。
さらに、仁穆王后の父親は死罪となり、母親は最下層の身分である奴婢(ヌヒ)にされてしまう。その他にも、王権を安定させることを口実に多くの高官が処罰されたため、光海君は大きな恨みを買ってしまい、王宮の周りは怨みの声で満ちていた。
光海君に怨みを持つ人たちは、クーデターを起こすことを決めた。そのクーデターの中心人物となったのが、光海君の甥に当たる綾陽君(ヌンヤングン)である。
綾陽君には、綾昌君(ヌンチャングン)という兄がいた。宣祖の五男である定遠君(チョンウォングン)、その息子である綾昌君はかなり聡明だった。しかし、王宮から「優秀な青年が王だったらよかったのに」という声が聞こえると、光海君と側近たちは綾昌君の言動を警戒し、最終的には謀叛(むほん)の罪を着せて殺害した。
そのことで私憤にかられた綾陽君は、光海君に怨みを持つ同志を集め、1623年にクーデターを起こした。王宮に入り込んだクーデター軍は重要な拠点を次々と占拠していった。本来なら王を守るために戦う王宮の兵士たちだが、クーデター軍に反撃の刃は向けなかった。王である光海君は、無駄な抵抗をしないで王宮から抜け出すが、後に捕らえられてしまう。
クーデターによって光海君を追放した綾陽君は、16代王・仁祖(インジョ)として即位する。光海君に愛する息子を殺され、自らも幽閉された仁穆王后は、執拗に光海君の斬首を望んだ。「いくら廃位になった王であっても、先王を処刑することは悪評につながる」と考えて、仁穆王后の怒りを鎮めることに尽力した。
結果、なんとか仁穆王后を落ち着かせることに成功した仁祖は、流罪として光海君を江華島(カンファド)に流し、最終的には都からもっとも遠い済州島(チェジュド)に流された。
光海君は、済州島に流されてから18年後の1641年に66歳で世を去った。多くの人から怨まれた彼は、一見すると暴君のように思える。
しかし、光海君は政治の指導者としての実力を見せているし、壬辰倭乱で荒廃した国土の復興や納税制度の改善(結果として庶民の負担が軽減された)も行ない、異民族の外交などで成果をあげている。この功績を見ると、光海君がただの暴君ではなかったと言える。
文=康 大地(コウ ダイチ)