朝鮮王朝518年の歴史の中で、王朝を揺るがすような大事件がいくつも起きている。今回は、10代王・燕山君(ヨンサングン)が起こした虐殺事件に注目してみよう。燕山君は、なぜそのような事件を起こしたのだろうか。
燕山君にまつわる逸話
燕山君は、9代王・成宗(ソンジョン)の長男として1476年に生まれた。彼の母親である斉献(チェホン)王后は、他の側室に目を向ける成宗に嫉妬して、宮中に呪いの言葉を持ち込んだために廃妃となった。その後、斉献王后は、罪を許すためにやってきた成宗の顔を引っ掻いたことで死罪に処されている。
母親の愛を知らずにわがままに育った燕山君。そんな彼にまつわる逸話を2つ紹介しよう。
1つ目は鹿にまつわる話だ。ある日、成宗は子供時代の燕山君を庭に呼んだ。そのとき、成宗が可愛がっている鹿が寄ってきて、燕山君の手の甲や服を舐めた。しかし、それに激高した彼は成宗の目の前で鹿を蹴とばしてしまう。それを見た成宗は「なんてことするんだ」と息子を叱った。燕山君は王になった後にその鹿を殺してしまう。
2つ目は恩師に関する話である。燕山君は、王になる前に帝王学を学んでいたが、教育係の側近があまりにも厳しかったようで、それを根に持っていた燕山君は、即位後にその側近を処刑した。
このことから見ても、燕山君がとても執念深い人物であることがわかる。
燕山君が王として即位したのは1494年である。王となった彼は、大きな事件を2つ起こしている。最初は「戊午士禍(ムオサファ)」である。 燕山君は、道義と名分を重んじる士林派の高官たちを目の敵にしており、何かと口うるさかったため、そんな士林派を容赦なく弾劾した。この事件の呼び名の由来は、1498年の戊午の年に起きたからだ(「士禍」とは、官僚や学者たちが犠牲になった事件を指している)。
さらに、王朝の最高学府である成均館(ソンギュンガン)を酒宴場にして酒池肉林を繰り返した。そんな王の様子に庶民が反感を示し始めた。人々は「王は酒と女にしか頭にない最低な王だ」「燕山君は無能の暴君だ」とハングルで書いた紙をいたるところに貼った。それを知った燕山君は、ハングルの使用を禁止した。
王宮が混乱する中、さらに事態が悪化する。出世欲に駆られた者が、燕山君に母親である斉献王后の追放劇を話してしまった。それまで何も知らなかった燕山君は、怒りと悲しみで一晩中泣き続けた。
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