張禧嬪を死罪した粛宗
その後、再び王妃となった仁顕王后は病により床に伏せることが多くなり、粛宗との子供を産むことのないまま1701年に世を去った。愛する妻の死を粛宗は悲しんだ。その翌月、叔嬪・崔氏は張禧嬪が王妃に呪いをかけていたことを話した。調べてみると、仁顕王后が住んでいた昌慶宮(チャンギョングン)の通明殿(トンミョンジョン)の周りから呪いの人形や小動物の死骸が見つかったのである。ただ、仁顕王后が亡くなった原因がその呪いによるものなのかどうかは定かではない。
それを知った粛宗は、激怒して張禧嬪に死罪を言い渡す。臣下たちは「世子の母親を死罪にするなんてとんでもない」と反対したが、粛宗は考えを改めなかった。
自ら毒を飲む羽目になった張禧嬪は、「死ぬ前に息子に一目会いたい」と願った。それを聞いた粛宗は、一度だけ面会を許した。その場にいた誰もが感動的な親子の対面を想像したと思うが、どういうわけか張禧嬪は自分の子の下腹部の辺りを思いっきり握って失神させてしまう。最後の親子の再会にしてはかなり衝撃的な内容だった。
張禧嬪は「朝鮮王朝3大悪女」の1人と見られているが、その一方で粛宗に翻弄された哀れな女性という見方もできる。粛宗は1720年に59歳で世を去るが、朝鮮王朝27人の王の中で、女性に関する問題をこれだけ多く起こしたのは彼の他にはいないと思う。
文=康 大地(コウ ダイチ)
粛宗(スクチョン)は張禧嬪(チャン・ヒビン)を死罪にするとき何を語ったか