1506年、燕山君(ヨンサングン)はクーデターで王宮を追われた。代わって即位したのが、燕山君の異母弟であった中宗(チュンジョン)だった。彼の妻の端敬(タンギョン)王后は堂々たる「国母(クンモ)」になったのだ。
復位を望む声
クーデターを成功させた高官たちは、端敬王后の廃妃を主張した。なぜならば、端敬王后の父親が燕山君の側近で、クーデターのときに殺害されているからだ。しかも、燕山君の正室も端敬王后の叔母であった。
このように端敬王后の親族には、燕山君に関係する者が多かった。そこで、クーデターを成功させた高官たちは、燕山君の残党たちが端敬王后を担いで復讐に乗り出すのではないかという恐れを抱き、端敬王后の廃妃を主張したのだ。
中宗は高官たちに頭が上がらない王であった。
結局、高官たちの主張を拒絶することができず、涙ながらに端敬王后を離縁した。
こうして端敬王后は廃妃となり、王宮から出されてしまった。
中宗は次に章敬(チャンギョン)王后を正室にした。この章敬王后は、1515年に中宗の長男(のちの12代王・仁宗〔インジョン〕)を産んだのだが、産後の肥立ちが悪くてすぐに亡くなってしまった。
中宗はせっかく長男が生まれたのに、再び独身になってしまった。
朝鮮王朝の国王は、すぐに再婚しなければならない宿命を負っていた。このとき、「一度は離縁した端敬王后を王妃に復位させたらどうか」という意見が出た。
端敬王后の復位を望む声は日増しに強くなった。
中宗も大いに気を良くした。
「ぜひとも彼女と再び!」
(ページ2に続く)
『七日の王妃』の端敬王后(タンギョンワンフ)はなぜ七日で廃妃になった?