朴槿恵(パク・クネ)大統領の弾劾にまで発展した崔順実(チェ・スンシル)スキャンダル。大統領が操り人形になっていたということで、国民の怒りが沸点に達したが、歴史を振り返ってみると、同じような事態になった時期があった。その中心人物は、朝鮮王朝の後期に女帝とした君臨した純元(スヌォン)王后である。
一族だけで利権を独占
純元王后は、23代王・純祖(スンジョ)の正室だった。
彼女の実家は安東(アンドン)・金(キム)氏の一族だった。
この「安東」とは、一族の流派を示す本貫(ポングァン)である。自分の出自を示す記号のようなもので、朝鮮半島の人なら誰もが持っている。
よく知られているように、「金」は人口が一番多い姓である。他の姓と同様に「金」にもたくさんの本貫があり、この本貫が一致する場合だけ同族と見なされる。中でも、「安東」は「金」の中でも特別な名門である。それゆえに、結束も固かった。
この安東・金氏の出身である純元王后は、決断力が弱い夫に成り代わって官僚人事に口を出し、いつのまにか高官の席に自分の息がかかった一族の男たちをズラリと並べた。その手練はしたたかで、純祖も口をはさめなかった。
一枚岩になった安東・金氏の高官たちは、一族だけで利権を独占し、朝鮮王朝の政治はあきれるほどに腐敗した。賄賂が横行しすぎたのだ。
安東・金氏の一族支配が崩れそうになったときがあった。
それは、純祖と純元王后の長男であった孝明(ヒョミョン)の妻として、1819年に豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏という一族の娘を迎えたときだった。
孝明は10歳の世子であった。幼い頃から聡明で、名君になる素質が十分だった。
もちろん、純元王后としては、ぜひ安東・金氏の娘を嫁に選びたかった。根回しをしていたのだが、最後に純祖に押し切られた。
これは、純祖の精一杯の抵抗だった。安東・金氏の横暴を見て見ぬふりしかできなかった王であったが、彼らの専横をこれ以上は許さぬために、純祖は珍しく強権を発して孝明の妻を豊壌・趙氏から選んだ。
孝明が成長するにつれて、王宮の中で豊壌・趙氏の勢力が強くなった。純祖の思惑どおりの結果になりそうだった。
しかし、状況が一転した。孝明が21歳で早世したのである。
純元王后は最愛の長男を失って悲しみに暮れた。皮肉にも、そのときが安東・金氏が勢力を巻き返す契機になった。
孝明の死は豊壌・趙氏の没落を意味していた。
純元王后はいつまでも悲しんでいなかった。安東・金氏の一族支配をさらに強固にするために裏で動いた。
純祖は失意のまま、1834年に44歳で世を去った。
王位を継いだのは孝明の息子で、24代王・憲宗(ホンジョン)となった。
年齢はわずか7歳。この幼さで政治ができるわけがない。祖母の純元王后が摂政を行なった。
対抗勢力が駆逐されているので純元王后の権力基盤は万全だった。
しかし、憲宗は1849年に22歳で急死してしまった。
この時点で、憲宗の六親等以内の王族男性は1人もいなかった。しかし、七親等であれば、数人の候補がいた。そんな状況の中で純元王后が探し出してきたのが、田舎で農業に従事していた元範(ウォンボム)という18歳の青年だった。
王族とはいえ、元範の親族はことごとく死罪や流罪になっていて、ほとんど身寄りがなかった。田舎育ちなので学問も積んでいない。能力も見劣りするのに、純元王后はなんと元範を次代の王に推挙した。安東・金氏の操り人形になるのにうってつけの王と見込んだからだ。
かくして、文字もまともに読めないような無学の男が王になった。それが25代王・哲宗(チョルチョン)である。
予想もしなかった王になって、勘違いした哲宗は酒と色に溺れた。純元王后の狙いどおりの結果になったのだ。
安東・金氏の天下は続き、その絶頂の中で純元王后は1857年に68歳で世を去った。純祖に嫁いで55年だった。
まさに、一族で国政を壟断(ろうだん)した人生だった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)