1598年11月、最後に島津軍がかろうじて対馬にたどりつき、豊臣軍は完全に日本に引き揚げてきた。7年近くにわたった戦乱の影響はあまりにも大きかった。朝鮮半島は荒廃し、多くの人命が奪われた。
窮地に陥った対馬
戦乱の中で捕虜として日本に連れていかれた人も相当数にのぼった。そのほとんどが農民だった。日本では長く続いた戦国時代によって農民の数が決定的に不足しており、その穴埋めとして朝鮮半島の農民が奴隷同然に連行されたのである。
捕虜の中には陶工も多く、彼らは主に西国大名の領地で陶磁器の生産に従事させられた。伊万里焼、薩摩焼、萩焼という焼き物の名所は朝鮮半島から連行された陶工たちが築き上げたものだった。
戦乱は終わったが、国土を荒された朝鮮王朝の恨みは甚だしかった。まさに「怒髪天をつく」という恨み方である。
餓死者が続出しかねない窮地に陥ったのが対馬だった。農地がないこの島は、朝鮮半島との貿易が命綱であった。
「戦は終わった。和平を急がねばならない」
対馬は秀吉の命令ではからずも戦争に加わったが、今度は関係修復をなにがなんでも進めなければならない立場だった。
対馬の使節は朝鮮王朝から何度も門前払いにされたが、それでも諦めず、頭を低くして朝鮮王朝に願いを出し続けた。
状況が変わったのが1600年9月だった。
日本では豊臣の家臣団が東西に分裂して天下分け目の決戦にもつれこんだ。関ケ原の合戦である。この戦いに勝利したのが東軍の徳川家康で、彼が豊臣家から政権を奪うことが確実の情勢となった。
朝鮮半島でも変化があった。戦乱が終わってもしばらく駐留していた明の軍勢が故国に引き揚げた。再度日本からの襲来があった場合、朝鮮王朝は単独で対処しなければならなくなった。
しかし、そんな心配はいらなかった。朝鮮王朝にとって家康は、仇敵の豊臣家を没落させてくれた人物であった。しかも、家康は戦乱時に配下の者を1人も朝鮮半島に出兵させていなかった。和平の話し合いを始めるにあたり、家康ほど好ましい相手は他にいなかった。
その家康は、征夷大将軍になって1603年2月に江戸幕府を開いた。念願をかなえた家康にとって、最後の望みは徳川家が将軍職を代々引き継ぐことだった。
障害がまだ多かった。気掛かりなのは、秀吉の遺児の秀頼が大坂城にいることだった。豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかついで幕府に反旗をひるがえすことも十分に予想された。なにしろ、徳川幕府には政権の正統性に疑問符が付いていたからだ。
「豊臣家の内紛にかこつけて政権を横取りした」
それが当時の日本人の率直な心情であったことだろう。
「幕府を磐石にするためにも正統性がほしい」
そう願った家康が着手したのが朝鮮王朝との関係修復だった。
彼にしてみれば、国内が磐石でないときに隣国とこれ以上もめごとを起こしたくなかった。さらに前向きに考えれば、朝鮮王朝と和平を結べば、徳川幕府が外国から正式な政権として認められることを意味していた。これこそがまさに“正統性”だった。
家康の意向をくんだ対馬藩は、それまで以上に熱心に朝鮮王朝に働きかけた。
「家康が相手であれば関係修復を考えてもいい」
徐々に軟化し始めた朝鮮王朝では、僧侶の惟政(ユジョン)を派遣して日本側の真意をさぐってみることにした。
惟政は松雲大師とも称されたが、能力的にも卓越した外交僧だった。戦乱時には加藤清正と何度も交渉を行なった経験があった。
1604年12月、京都を訪れた惟政は伏見城で家康に面会した。そのときの家康は「朝鮮王朝との和平を強く望む」と明言した。惟政は好印象を持ち、そのことを帰国後に国王に報告した。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)