過去の記事一覧
 
 
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    女帝のように王朝を支配した貞純(チョンスン)王后が1805年に世を去りましたが、代わって実権を握ったのが安東(アンドン)・金(キム)氏の一族でした。さらに、政治が混乱していきました。
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    正祖(チョンジョ)は名君として今の韓国でも尊敬されています。4代王・世宗(セジョン)ほどではないにしても、その次くらいの評価を得ています。政治的な業績もたくさんありますが、特に、身分が低くても才能がある人を抜擢して、将来… 
 
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    1762年に米びつの中で餓死した思悼世子(サドセジャ)には10歳の息子がいて、英祖が1776年に亡くなったときに王位を継いでいます。それが22代王の正祖(チョンジョ)です。ドラマ『イ・サン』の主人公になっている王です。
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    1701年10月、粛宗(スクチョン)の命令によって、張禧嬪(チャン・ヒビン)は死罪と決まりました。死を覚悟した張禧嬪は「世子に会わせてください」と懇願しました。この世子とは、張禧嬪が1688年に産んだ粛宗の長男です。
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    1689年、粛宗(スクチョン)は仁顕(イニョン)王后を王宮から追放しました。「仁顕王后が質素な白いチョゴリを着て、わずかなお供を連れて実家に戻る場面」……それは様々な韓国時代劇で描かれてきました。ドラマの中で仁顕王后は「… 
 
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    19代王の粛宗(スクチョン)は孝宗(ヒョジョン)の孫にあたります。在位期間中は農業と商業を活性化させて庶民の生活水準を向上させたことが功績になっています。その一方で、自己中心的で女性問題で何度もトラブルを起こしています。… 
 
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    1623年、光海君(クァンヘグン)に対して怨みを持っていた綾陽君(ヌンヤングン)がクーデターを起こし、油断していた光海君は廃位となって王宮を追われ、江華島(カンファド)に流罪となりました。
4番目の長寿
光海… 
 
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    豊臣軍との戦争は、朝鮮王朝の王の後継者問題にも影響を与えます。14代王・宣祖(ソンジョ)の息子が戦乱の中で明暗を分けたのです。長男の臨海君(イメグン)は加藤清正の捕虜になってしまいましたが、次男の光海君(クァンヘグン)は… 
 
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    1637年1月、侵攻してきた清に屈伏した16代王・仁祖(インジョ)は、清の皇帝の前で屈辱的な謝罪を行ないました。その代償は大きく、仁祖の3人の息子たちは人質として清に連行されました。長男の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)も… 
 
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    朝鮮王朝は1392年に始まってから、王の後継者をめぐって骨肉の争いがあったとはいえ、対外的に平和な日々を過ごしていました。1592年といえば、創設から200周年で記念すべき年だったのですが、お祭り気分は吹っ飛んで存亡の危… 
 
 
 
 
  
  
  
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