世宗(セジョン)が1397年に生まれたとき、父親の太宗(テジョン)は波乱の中にいた。彼は世子(セジャ)の指名からはずれてしまったが、異母弟の芳碩(パンソク)を排除して自分が正当な王位継承者であることを力で見せつけようとした。
三男の能力を評価した父
1398年に太宗は「王子の乱」を起こして芳碩を殺害。そのうえで1400年に3代王として即位した。
このときに世宗は3歳だったが、このときから「王の息子」として育てられた。幼い頃からとても利発な子供で、かたときも書籍を離さなかった。
病気になっても書籍を読むことをやめなかった世宗。息子のからだを心配した太宗は書籍を屏風の後ろに隠してしまったのだが、世宗はフラフラするからだで書籍を探し当てて、病床でも読書をやめなかった。
まさに「本の虫」である。
これだけ読書を続けたおかげで、世宗は学者も顔負けするほど博識になった。ただし、彼は自分がまさか王になるとは想像すらしていなかった。
兄弟は4男4女だったが、彼は上に兄が2人もいて、気軽な3男坊だったのである。
しかし、父親の太宗は頭脳明晰な世宗に後を継がせようと思い始めていた。太宗にとっては長男も二男も王にふさわしいとはとても思えなかった。
そこで彼は長嫡子が王位を継ぐという原則を変えて、三男の世宗に白羽の矢を立てた。
1418年、太宗はまだ元気なうちに譲位して、青天の霹靂で世宗が4代王になった。
太宗の目に狂いはなかった。21歳で王位に就いた世宗は博学ぶりを発揮して臣下たちから大きな信頼を得た。
1422年に太宗が亡くなると、世宗は完全に独り立ちして次々に庶民の暮らしを向上させる政策を実行していった。
彼の治世で特に際立っていたのは、人事の巧みさである。
世宗は身分が低い者でも能力があれば抜擢して大いに才能を発揮させた。中でも王宮の中にあった集賢殿(チッピョンジョン)は、有能な者たちが集う拠点となり、世宗の政治を支えた。
その一方で、世宗は人事でコネがはびこる悪弊を嫌った。彼の側室の1人が「兄に役職を与えてくださいませんか」と懇願してきたことがあったが、世宗はその申し出をきっぱりと拒絶し、以後はその側室を近づけさせなかった。彼はコネで決まる人事は停滞を生み、行政を混乱させるとよく知り抜いていたのである。
世宗の治世時代には政治、経済、文化が大いに活性化されたが、とりわけ最大の功績なのがハングルの創製である。このハングルは、できた当時は訓民正音(フンミンジョンウム)と呼ばれた。
民族独自の文字の創製は、まさに朝鮮王朝の金字塔であった。