豊臣秀吉の大陸制覇の野望を早くから察知していた明は、豊臣軍の攻撃を知ってからもしばらく様子をうかがっていたが、ついに援軍を出した。しかし、1592年7月に平壌(ピョンヤン)で豊臣軍を駆逐しようとした明は、逆に敗退を喫した。
碧蹄館の戦い
明は日本の兵力をあなどっていて、武器や兵士の数が十分ではなかった。
戦略の誤りに気づいた明は、今度は本格的な救援軍を送ってきた。周辺の異民族との戦いに慣れている明はやはり強かった。1593年1月、猛将・李如松が指揮する明の軍勢は、平壌において小西行長軍を破った。
すでに冬になり、豊臣軍は厳しい寒さと食糧不足に悩み、上陸当初の勢いはまったくなかった。
平壌を取り戻した明は、都の漢陽(ハニャン)に向けてどんどん南下していった。危機感を持った豊臣軍は、漢陽の北側にある碧蹄館(ペクチェグァン)で明の軍勢と激しく争った。
「いったん引き下がって様子を見る」
李如松はこう決断して明の軍勢は碧蹄館から遠ざかった。
石田三成を初めとする朝鮮奉行たちは、情勢を分析したうえで、咸鏡道(ハムギョンド)に展開している加藤清正に漢陽まで下がってくるように命じた。
ただ、それもたやすいことではなかった。各大名の配下にいた軍勢の消耗が激しかったからだ。
兵力の半分近くまでを失う状況がどの大名にも見られた。
明の軍勢が再び南に向かって進撃を開始した。
1593年3月、いよいよ漢陽をめぐる決戦が近づいた。明の総司令官だった宋応昌は、熱くなる一方の兵士を冷静に見つめながら、効果的な戦術に思いをめぐらせていた。彼はついに決断し、豊臣軍の食糧を一気に断つために、漢陽の南にあった貯蔵米の倉庫を焼き討ちにした。
豊臣軍は衝撃を受けた。残しておいた2カ月分の食糧の大半を失ってしまったからである。
この機をとらえて明の将軍・沈惟敬は、小西行長に対して和議を打診した。
「もうすぐ40万人という大軍が援軍としてやってくる。倭軍が捕らえている2人の王子を釈放して漢陽から撤退すればこの戦も終わる」
沈惟敬の提案は小西行長にとっても“渡りに舟”だった。漢陽から撤退しないままでいると、豊臣軍が致命的な敗戦を喫することが小西行長にもわかっていた。
「これ以上の戦いは無益だ」
小西行長はそう悟って、沈惟敬の和議提案に前向きになった。
豊臣軍と明との間で、停戦に向けた話し合いが始まった。しかし、朝鮮王朝は和議に真っ向から反対した。あくまでも徹底的に抗戦して豊臣軍を国土から完全に追い出すことを強く主張した。
あまりに朝鮮王朝の反対が強硬だったので、明は独自に豊臣軍との和議を進めた。
明が提案した主な条件は次の通りである。
・拘束している朝鮮王朝の王子2人を釈放する
・豊臣軍は漢陽をひき払った釜山まで下がる
・明の軍勢は豊臣軍の漢陽撤退と同時に引き揚げる
・条件が整えば、明から日本に対して講和のための使節を送る
総司令官の宋応昌は、早く和議を成し遂げるために一計を案じた。あたかも明の皇帝が送った使節であるかのように装って、2人の部下を豊臣軍の軍営に派遣したのである。
何も知らない豊臣軍はこの2人が正式な使節であると勘違いして、漢陽からの撤退を決断した。偽りの使節は、1993年5月には九州北部の名護屋城までやってきて、豊臣側とさらに交渉を重ねた。
文=康 熙奉(カン ヒボン)