明聖(ミョンソン)王后は17歳のときに夫の顕宗(ヒョンジョン)の即位によって王妃となり、世継ぎとなる長男を19歳で出産した。その長男が19代王・粛宗(スクチョン)になったのは1674年で、明聖王后は32歳だった。
高官たちから抗議を受けた
意外だが、朝鮮王朝の王妃の中で明聖王后のように「世子嬪→王妃→王の母」という段階を順調に経ていった女性はほとんどいなかった。
それだけ恵まれた境遇を享受したのだが、明聖王后は順風満帆だったがゆえに、性格もわがままになっていった。
女性の立ち入りを禁止されている庁舎まで押しかけて閣議に口を出し、高官たちから厳しい抗議を受けたこともあった。
それでも明聖王后はひるまない。粛宗が張禧嬪(チャン・ヒビン)に熱を上げると、母の勘で「あの女を近づけてはいけない」と見なし、すぐに張禧嬪を宮中から追い出してしまった。
明聖王后の息子への溺愛ぶりは宮中でも有名だった。それだけに、粛宗が原因不明の重病に陥ったとき、明聖王后は取り乱した。
巫女(みこ)を呼んで祈祷をすると、その巫女からこう言われた。
「母の体内にわざわいがあり、それが息子の病の元になっている。わざわいを解くには、水でからだを清めること」
そこまで言われたら、水浴びをしないわけにはいかない。
いや、むしろ、明聖王后は自ら進んで何日も水浴びをした。
しかし、季節は真冬だった。
身が凍るような冷水は明聖王后を極端に衰弱させた。その果てに、彼女は1683年に41歳で亡くなった。
しかし、その死は無駄ではなかった。
なぜ、明聖王后の死は無駄ではなかったのか。
それは、彼女が亡くなった直後に粛宗が奇跡的に回復したからである。いわば、明聖王后は息子の身代わりになったのだ。
母として本望であったかもしれない。
ただ、その死は結果的に1人の女性を宮中に復活させることになってしまった。
それは、張禧嬪である。
彼女は、明聖王后が存命であれば粛宗に近づくことができなかったのだが、その障害がなくなった。
母から溺愛された粛宗は、百戦錬磨の張禧嬪からすれば、色香で惑わすのがたやすい相手だったことだろう。
かくして、韓国時代劇でよく取り上げられる男女の愛憎劇が、17世紀末の王宮を舞台に派手に繰り広げられることになっていく。
文=康 熙奉(カン ヒボン)