時代劇『奇皇后』に登場する「貢女」とは?

13世紀、強大国となったモンゴルは、高麗王朝に朝貢を求めてきた。高麗王朝がこれを拒むと、1231年に大軍で攻めてきた。当時のモンゴルは最強の軍事力を持っていた。高麗王朝は頭を下げて必死に和睦を結んだが、以後もモンゴルはしつこく朝貢を強要してきた。





元が貢物を要求

1232年、高麗王朝は開城(ケソン)から江華島(カンファド)に首都を移した。海戦に慣れていないモンゴルの攻撃に備えるためだった。
実際、モンゴルは大軍で攻めてきて国土を席巻したが、高麗王朝は都を島に移したおかげで滅亡を逃れた。
しかし、戦乱はずっと続いて40年近くに及び、1270年、ついに高麗王朝は完全にモンゴルに屈した。
1271年、モンゴルは国号を「元」と改め、中国大陸の支配者になった。
以来、高麗王朝は元から盛んに貢物を要求された。
金銀財宝、駿馬、特産物などが貢物の主なものだったが、悲劇的だったのが「貢女(コンニョ)」の要求だった。
これは、元の要求で女性を差し出すことを意味していた。
元の貢女要求は記録に残っているだけでも50回以上もあり、元の皇族や貴族が個人的に要求することも多かった。




元は遊牧民の国家だが、遊牧民は同族婚を嫌っていて、自分の部族の外から妻を得る風習があった。
その結果、元の皇室や貴族の妻となる女性の数が不足がちとなった。
また、広大な領土を手にする過程で増大した軍人たちの結婚のためにも、女性が多く必要だった。
しかし、高麗王朝は困り果てた。
娘を貢女にさせまいと早婚の風習ができるほどだった。
それでも、元には逆らえない。
「貢女を出す家には十分な報酬を出す」
高麗王朝は報酬を用意して必死に女性を集めようとした。しかし、貢女の数は絶対的に少なかった。
やがて高麗王朝は、罪人や奴婢の妻や娘たちを強制的に集め始めた。それによって、数の上ではなんとか元の要求に従えるようになった。
貢女として元に渡った女性の苦労は並大抵ではなかった。




風習が違う異国で暮らすのはつらかった。
自殺者も多かったと言われている。
高麗王朝が元の支配を受けた結果としての悲劇であった。
奇皇后も当初は泣きながら元に渡った。
彼女は、高麗王朝の下級官僚である奇子敖(キ・ジャオ)の娘だった。奇子敖としては立場上しかたなく、娘を貢女として差し出したものと思われる。
ただし、奇皇后の本名や出生に関する記録は残されていない。
格別な美女であったことは間違いなく、元の官僚が奇皇后のことを「杏花のように白い顔、桃のような紅い頬、柳のような腰」と表現している。
奇皇后が元に行ったのは1333年のことだ。
最初は悲嘆に暮れていた彼女もいつのまにか元の皇室に入り込んで確固たる地位を築いた。賢い頭脳とたぐいまれな美貌がそれを可能にしたのである。

構成=「韓流テスギ」編集部

奇皇后は何をしたのか(前編)

6人の歴史重要人物1「光海君」

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