近江の鬼室神社
意外にも、豊璋に殺された福信も日本にその血を残している。
百済が完全に滅んだあと、福信の息子の鬼室集斯は一族郎党と一緒に日本に逃れてきた。王族の血筋だけに朝廷は鬼室集斯を優遇し、かなりの位階を与えて学識頭に任じた。
この学識頭とは、今でいえば教育を司る役所の長官をさす。本当に重要な役職を与えられるほど、鬼室集斯は朝廷から大きな期待をかけられていた。
鬼室集斯はその職務を全うし、晩年は近江の小野(この)に住んだ。その頃、近辺には百済系の渡来人が多く住んでおり、鬼室集斯は大きな尊敬を集めた。そして、688年に没し、彼を慕う人々によって近江の地に埋葬された。
その墓が、今も鬼室神社として残っているという。私は近江鉄道の日野駅で降り、タクシーに乗って、小野の鬼室神社をめざした。
若い運転手さんが「小野のほうに行くには、いい道ができたので便利になりましたよ」と親しげに言った。
「前はかなり時間が掛かったんですか」
「そうなんですよ。道を迂回しながら、山のほうに入っていかなければならなかったですからね」
そんな話をしている間にトンネルをくぐった。仮にこのトンネルがなかったら、かなり迂回せざるを得ないだろうと思えた。
トンネルを抜けると山並みが迫っていた。その最後の平野部の真ん中に木々で囲まれた場所があり、そこが鬼室神社だった。
古びた本殿の裏に石祠があった。高さは1メートルほどで、石の扉の中に鬼室集斯の墓碑が納められているという。
扉を開けることはできず、実際に墓碑を見ることはできなかった。しかし、横の掲示板に墓碑の写真が載っている。それを見るかぎりは、高さ70センチほどで、コケシのようにくびれがある形をしていた。
私は石祠に向かって合掌したあと、そのそばでしばらく休んだ。
枚方の百済寺跡から鬼室神社までは、距離にしてどのくらいだろうか。
百済の再興を期した鬼室福信と豊璋。最後は仲間割れした2人だが、その血を受け継ぐ者がそれぞれ日本で重職に就いていたとは……。
百済は亡国となったが、その魂は日本に残ったということだろうか。
(終わり)
文=康 熙奉(カン ヒボン)