特別な才覚を持っていた
高句麗の建国神話によると、朱蒙は東扶余の王の養子になっていたのだが、王の実子に命を狙われて出国し、肥沃な卒本(チョルボン)で高句麗を興したことになっている。この点に関しては韓国でもいくつかの説があり、事実として証明できるものはない。
ただし、国を追われて新天地をめざした人間が、見知らぬ土地でそう簡単に国を興せるとはどうも考えにくい。
歴史書『三国史書』の「百済本紀第一」には、卒本にやってきた朱蒙が現地の王と親しくなったという話が出てくる。それによると……。
「王に3人の娘がいたが息子はいなかった。王は朱蒙を見て只者ではないことを見抜き、二番目の娘と結婚させた。この婚姻を足掛かりにして、朱蒙は王位を継いだ」
特別な才覚を持つ朱蒙のことだから、王になってから周辺地域を次々に領土に組み入れることは可能だっただろう。それを基盤にして高句麗を建国したということも十分に考えられる。
建国後の活躍ぶりは、『三国史記』にも詳しく出ている。
朱蒙は隣接する沸流国を訪ねて行き、そこを統治する松譲王(ソンヤンワン)に会った。そして、朱蒙は堂々と言った。
「私は天帝の子である。この近くに都を築いた」
すると、松譲王はいかにも不愉快そうに言った。
「私はここの代々の王である。この土地に2人の王はいらない。君は都をつくったばかりだそうだが、むしろ私に従ったらどうか」
(ページ3に続く)