幼い国王が即位したとき、王族の最長老女性が摂政をすることを「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」と呼んだ。歴史的には中国の皇室でよく行なわれたことだが、それは朝鮮王朝も同じだった。この場合、王族の最長老女性に該当するのは、幼い王の祖母か母であった。
王に成人に達するまでの代理
朝鮮王朝の国王は27人いたが、一番幼い年齢で即位したのは、24代王・憲宗(ホンジョン)の7歳、さらには、23代王の純祖(スンジョ)の10歳、13代王・明宗(ミョンジョン)の11歳などとなっている。
これだけ幼いと、政治ができるわけがない。しかし、国王であった父はすでに世を去っている(それゆえ、自分が幼い年齢で王を継いでいるのだが……)。
そこで出番がまわってきたのが王族の最長老女性だった。そして、王が成人に達して親政を行なうまで、代理で国の政治を仕切った。
朝鮮王朝で最初に垂簾聴政を行なったのは、9代王・成宗(ソンジョン)が即位したときの貞熹(チョンヒ)王后だった。
彼女は、成宗の祖母である。
幼い王に代わって実質的に政治を仕切るので、垂簾聴政を行なう王族女性は絶大な権限を握った。そうした女性たちの中で、特に悪評が高いのが、『オクニョ 運命の女(ひと)』にも登場する文定(ムンジョン)王后である。
彼女は11代王・中宗の三番目の正室であり、1534年に明宗を産んでいる。
本来なら、明宗は中宗の二男だったので、王位に就ける可能性は高くなかったのだが、中宗の後を継いだ長男の12代王・仁宗(インジョン)が即位8カ月で急死したことによって、二男の明宗に王位がまわってきたのである(仁宗は文定王后に毒殺された可能性がきわめて高いのだが……)。
1545年に明宗が即位したときはまだ11歳だったので、慣例にしたがって文定王后が垂簾聴政をした。
これは朝鮮王朝にとって、とても不幸なことだった。
当時は凶作が多く、餓死者が次々に出ていたのに、文定王后は庶民の生活に見向きもしないで、一族の利権を独占する政治を続けた。その手先になったのが、『オクニョ 運命の女(ひと)』にも登場する弟の尹元衡(ユン・ウォニョン)や、その妾(後に妻)だった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)であった。
明宗は、垂簾聴政をする母の悪行に苦しんだ。しかし、王であるとはいえ、親政ができない彼にはどうすることもできなかった。
さらに、明宗が成人したあとも文定王后は「陰の女帝」として君臨し、彼女は1565年に死ぬまで実質的な垂簾聴政を続けた。
このように、垂簾聴政という制度は、それを担う王族女性の意向でいかようにも歪められてしまう。しかも、この制度を徹底的に悪用したのが文定王后だったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)