『華政』で描かれた貞明公主の物語「第1回」

貞明公主と永昌大君

1603年、仁穆王后は宣祖の子供を産んだ。
王子ではなく、王女であった。この王女こそが貞明公主だった。
王位を継承できる男子ではなかったが、正室が産んだ初めての子供だったので、宣祖は貞明公主をとても可愛がった。
貞明公主に弟が生まれたのは、彼女が3歳のときだった。仁穆王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのである。
宣祖は、あきらめかけていた嫡男を得て、世子を光海君から永昌大君に替える腹積もりだった。
彼が長生きしていれば、間違いなく後継者は永昌大君になっていたはずだ。
しかし、宣祖は1608年に亡くなってしまった。さぞかし無念であったことだろう。自分の目で嫡男の即位を見ることができずに……。
宣祖が亡くなったとき、貞明公主は5歳で、永昌大君は2歳だった。




2歳といえば、まだ言葉も満足に話せない。この幼さで王になることは難しいと、仁穆王后も認めざるをえなかった。彼女は王位継承問題で主導権を握れる立場にあったのだが、自分のお腹を痛めて産んだ永昌大君を次の王にごり押しすることはできなかった。
せめて、宣祖があと3年生きていれば……。
5歳であれば、王に即位できる可能性があったのだが、やはり2歳では、とうてい無理だった。
「貞明が男であったならば……」
仁穆王后もそう思いながら、ため息をつかざるをえなかった。
結局、光海君が宣祖の後を継いで15代王として即位した。仁穆王后は「王の母」を意味する大妃(テビ)となった。
大妃といえば、王族の最長老である。朝鮮王朝は儒教を国教にしており、「長幼の序」を厳格に守る倫理観が強かった。
「よもや光海君が私を邪険にするはずがない」
仁穆王后はそう楽観していたのだが、それはあまりに甘かった。以後、仁穆王后と貞明公主と永昌大君は、過酷な運命にさらされていく。

(第2回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第2回」

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第3回」

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第4回」




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