許浚(ホ・ジュン)は1546年に生まれています。世を去ったのは1615年です。その69年の人生は、まさに朝鮮半島の医学の発達に捧げた生涯でした。本当に「偉人」と呼ぶにふさわしい存在でした。
王からの信任が厚かった
許浚を語る上では、庶子(妾の子供)であったという事実を見逃せません。朝鮮王朝時代は身分制度が厳格で、庶子は出世できないことになっていました。許浚も苦しい境遇になったのです。
それでも、許浚は卓越した才能に恵まれていました。
本来、庶子であっただけに医師としての出世を望めなかったのですが、1590年に世子(セジャ/王の正式な後継者)であった光海君(クァンヘグン)の天然痘を治したことから、王族たちに認められました。
1592年に豊臣軍が攻めてきたとき、14代王・宣祖(ソンジョ)は都が陥落する前に北方に逃げますが、ずっと許浚が帯同しています。
腕の良い医師として、王からの信任がよほど厚かったのでしょう。庶子出身で大出世した許浚は妬みの対象になってかなり足を引っ張られますが、それを乗り越えて医師として大成していきます。
1596年、許浚は宣祖から次のように言われます。
「わが国の医学書は中国の古典医学書を参考にしているが、風土も食べものも違う中でそのまま受け入れるのは無理がある。わが国に見合った医学書を作ってみよ」
許浚は王から壮大な著作の執筆を命令されたわけですが、この執筆はなかなか進みませんでした。
多忙すぎた許浚には著作に集中する時間がなかったのです。
1608年に宣祖が亡くなりました。
主治医であった許浚は国王の病死の責任を問われ、中央での職を解かれて帰郷処分になります。
官職を得て出世することが栄誉とされた当時としては大変な屈辱ですが、逆に言えばこの期間は“天からの恵み”でした。
というのは、医学書の執筆に費やすことができたのです。その末に1610年に完成させたのが『東医宝鑑』という医学書です。各症状に合わせて治療法が述べられており、当時としては画期的な本でした。
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