王が絶対的な権力を持つ朝鮮王朝では、王が名君ならば平穏な時代が流れ、暴君ならば混乱をきわめた。10代王の燕山君(ヨンサングン)は最悪の暴君であり、朝鮮王朝がもっとも血に染まった時代だ。
燕山君を嫌う臣下たち
1494年に即位した燕山君は、王政を放棄して堕落した日々を送り、国の財源は日に日に衰えていった。そして、その帳尻を合わせるために、庶民は過酷な税金を取られてしまった。
当然ながら、人々は燕山君の治世の終了を願い、臣下たちは自分に被害が及ばぬよう口をつぐむばかりであった。
やがて燕山君に露骨に不満を示す臣下たちも現れ、それを表す事件も起こった。
いつも通りの酒宴が行なわれる宮中で、李世佐(イ・セジャ)という高官が燕山君の服に酒をこぼしたことがあった。
「殿下、申し訳ありません。手元が狂ってしまいました」
李世佐は朝鮮王朝の名門中の名門の出身で、大臣の地位にいた。王の服を汚すなど本来なら許されない行為だが、その場にいた臣下たちは誰ひとり、李世佐をとがめなかった。それは、燕山君の王としての尊厳の低下を意味していていた。
なおさら、燕山君の怒りが凄まじかった。
「貴様ら、無礼を働いたこいつをなぜとがめない! この罪人をすぐとらえるのだ」
王命を受けた者たちは、しぶしぶ李世佐をとらえた。
燕山君は、王の威厳を取り戻すために、李佐世に厳しい罰を与えようとした。
「今すぐ、こいつの首をはねよ」
しかし、その命令は実行されなかった。
普段は歯向かわない臣下たちも、酒をこぼしただけで同僚を殺すことなど到底できなかった。
「李世佐は高い位に位置する人物でございます。それを簡単に殺してしまっては、宮中が混乱してしまいます。どうか、どうか寛大なご判断をお願いします」
多くの臣下たちに止められた燕山君は、その申し出をしぶしぶ受け入れた。
「もうよい、李世佐については、家族全員の官職を没収した上で、都から追放せよ。ああ、気分が悪い。余はもう寝るぞ」
この一件はこれで済んだが、さらに、燕山君から宮中へ来るように言われた高官が、その呼び出しを無視する事件まで起きた。もはや、燕山君の権威は完全に失墜していた。そのことを彼も認めざるをえなかった。
「王に歯向かうとは……。ただでは済まさんぞ」
燕山君はその場の怒りを必死に抑え込み、着々と反撃の機をうかがっていた。
このように燕山君から心が離れる臣下が増える一方で、彼に取り入って甘い汁を吸おうとしている者たちも存在した。
その1人が任士洪(イム・サホン)だった。ずる賢く保身にたけていた彼は、先王の成宗(ソンジョン)にその狡猾さを見抜かれ出世の道を断たれていたが、燕山君に近づいて復権の機会をさぐっていた。
「一度はどん底を見たオレだが、絶対にあきめない。必ず権力を手にしてやる」
任士洪には、燕山君に取り入ってもらえる秘策があった。
任士洪は満を持して、彼は燕山君に接見を申し込んだ。
「お伝えすべきか迷いましたが、やはり報告させていただきます。殿下のお母様についてでございます」
燕山君の産みの母は、成宗の寵愛を一時期受けていたが、不祥事を相次いで起こして死罪となっていた。
当時、まだ幼かった燕山君はそのことを知らなかった。もちろん、この出来事は宮中で禁句になっていた。なぜなら、気性が激しい燕山君が、その話を聞いたらどうなるか、火を見るより明らかだったからだ。
「母上がどうしたと言うのだ。余が幼い頃に病気で亡くなったと聞いているが……」
「真相を殿下に隠していました。すべては殿下のお心を思ってのことでしたが、私にはもう限界です。母上様は死薬を飲まされて殺されたのです」
涙ながらに死の真相を伝える任士洪。かつて彼には、燕山君の母の処罰に反対したという過去があった。それゆえ、臆することなく報告することができたのだ。
すべてを語り終えると、任士洪は血に染まった赤い布を燕山君に献上した。
「母上様が死薬を呑まされた時に吐かれた血で染まった布でございます」
ここまで用意したのだから、任士洪の準備は周到だった。
燕山君は布を抱えて、その場で泣き崩れた。
その嗚咽は、王宮中に鳴り響いた。
一晩中泣き続けた燕山君。落ち着きを取り戻した彼の目には、怒りと復讐の火がごうごうと燃えていた。
燕山君は、母の死に関わった人物を徹底的に調べ始めた。
その調査書の中に李世佐の名前を見つけた時、彼の怒りは限界を越えた。こうして宮中を震え上がらせた「甲午士禍」が始まった。
手始めに、燕山君は成宗の側室たちを宮中に呼び出し、彼女たちとその子供まで無残に処刑した。
次の標的は、母の死罪に賛同した者や、それを実行した者だった。容赦なく、徹底的に死罪にした。
それでも燕山君の腹の虫はおさまらず、すでに死んでいる者たちも例外にしなかった。死者からも官職を奪った後、墓を暴きその遺体の首をはねた。
特に、以前に無礼を働いた李世佐に対する怒りは凄まじかった。燕山君は彼のみならず、一族郎党すべてを皆殺しにした。
虐殺劇はこれでも終わらなかった。燕山君を陰であやつる任士洪は、この際すべての政敵をほうむってしまおうと考えた。そこで、燕山君に嘘の報告を続け、燕山君の母の死に関わっていない者たちもこぞって死に追いやった。
無数の血が流れた「甲午士禍」。なんとか生き残った官僚たちも完全に委縮してしまい、燕山君は思いのままに独裁政治を続けた。
文=慎虎俊(シン・ホジュン)