巾着田から40分ほど歩くと、やがて聖天寺(しょうでんいん)にたどりついた。山門が古色蒼然として実にりっぱである。思わず、拝みたくなるほどだった。その山門から少し右に進むと、「高麗王廟」がある。これは、高麗地域の開拓に大きく貢献した若光(じゃっこう)の墓だと伝えられている。
高麗王廟
高麗丘陵をゆっくり歩く。
社に納められているのは高さ2・3mの石塔であり、砂岩を5個重ねて構成されている。今は特別待遇を得ているわけだが、かつては寺の境内にあったものだろう。
この若光とは一体誰なのか。
話は、7世紀にさかのぼっていく。
当時の朝鮮半島は、北部の高句麗(こうくり)、南西部の百済(くだら)、南東部の新羅(しらぎ)が拮抗する三国時代だった。この中で、中国側の勢力と連合して急激に国力を強化したのが新羅だった。
660年、百済を滅ぼした新羅・唐の連合軍は、続いて高句麗を攻めた。最初は固い守りで防いでいた高句麗だったが、権力闘争によって政権内部が分裂し、急激に国力が弱まっていた。
666年、国家存亡の危機に瀕し、高句麗は大和朝廷に外交使節を派遣して援軍を要請した。その外交使節の一人が、若光だった。ただし、必死の懇願にもかかわらず、大和朝廷は動かなかった。
そして、668年、高句麗は滅びてしまう。日本にやってきたまま故国が滅亡して若光はどうしたか。はしごをはずされた形になったが、失意の中でも、日本で必死に新たな道を模索しようとした。
そして、朝廷内で頭角を現し、従五位下の位を与えられ、703年には「王」の姓を授かっている。
この場合の姓とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、「王」の姓は外国の王族出身者に授けられたものだった。それだけに、若光は高句麗の王族の血筋を受け継ぐ者と認められていたのである。
なお、8世紀前半の日本には、朝鮮半島からの渡来人が数多く住んでいた。
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