大量の血が流れた虐殺事件
事実を知った燕山君は、最初に母親の名誉を回復させようとした。それに対して、「罪人を復位させるなんてとんでもありません」などの反対の意見が多く出たが、燕山君はそのすべてを無視した。その後、彼は母親の死に関わった者や傍観した者、さらに母親の復位に反対した者たちの首をはねて虐殺した。それだけではなく、すでに亡くなっている者に関しては、墓を掘り起こして首をはねた。これが、1504年の甲子の年に起きた「甲子士禍(カプチャサファ)」である。
そういった暴政を行なった燕山君は、多くの人から恨まれており、1506年にクーデターで王宮を追放されてしまう。
本来なら側近や兵士が命を懸けて王を守ろうとするのだが、ひどい暴政で人々を苦しめてきた王を誰も守ろうとしなかった。
王宮を追放された燕山君は、江華島(カンファド)に流罪となり、その2カ月後に30歳で世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)