張禧嬪の死罪
粛宗は張禧嬪を次第に遠ざけ、側室の淑嬪(スクピン)崔(チェ)氏に夢中になっていった。危機感を覚えた張禧嬪は、淑嬪崔氏を監視して執拗に嫌がらせをする。しかし、淑嬪崔氏と粛宗との間に男子が誕生すると張禧嬪の形勢はさらに悪化し、粛宗も悪い噂の絶えない張禧嬪を正室から降格させて、仁顕王后を復位させた。納得できない張禧嬪は、仁顕王后を呪う儀式を行なった。
1701年、仁顕王后が原因不明の病に倒れ、亡くなる。張禧嬪の行ないは、やがて粛宗の知るところとなり、張禧嬪は死罪となる。
粛宗は最後の情けで張禧嬪が残した息子の王位継承権を奪わず、息子は20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。しかし、罪人の息子を王と認めない者は多かった。それほど張禧嬪は嫌われていたのである。