16代王・仁祖(インジョ)はどんな王だったのか

国内の反乱では初めて

李适はなにしろ、最強と言われた北方守備部隊を管轄していた。この軍を使って反乱を起こした李适は、王朝軍を次々に破って都の漢陽に迫った。
命の危険を感じた仁祖は、あっさりと漢陽を捨てて、忠清(チュンチョン)南道の公州(コンジュ)に向かって避難していった。
朝鮮王朝は1392年に建国されたが、王が国内の反乱によって漢陽から逃げるのは初めてだった。豊臣軍の朝鮮出兵のときの宣祖とは、事情がまるで違うのである。
李适に率いられた反乱軍が漢陽を占領したのは、挙兵してから19日目の1624年2月10日であった。
最終的に、反乱軍は王朝軍の巻き返しによって敗れ、李适は部下に殺されている。こうして乱は終わったのだが、あっさりと都から逃げ出したことで、仁祖の評判は非常に悪くなった。
それから3年後、朝鮮王朝は今度は北方の異民族の後金に攻められた。
このときも仁祖は、王宮から逃げて江華島(カンファド)に避難した。最後はなんとか和睦を結んで、朝鮮王朝は滅亡を免れた。
しかし、仁祖は後金を尊重するという和睦条件を守らず、相変わらず明のご機嫌ばかりとっていたので、後金は国号を清と変えた後の1636年12月に12万の大軍で侵攻してきた。
このとき、仁祖は漢陽の南側にある南漢(ナマン)山城にあわてて避難した。
南漢山城での籠城は40日あまりになり、ついに耐えきれなくなった仁祖は、漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)において、清の皇帝の前で、土下座のごとき屈辱的な謝罪をさせられた。
以上のように、3度も王宮から逃げて保身に執着した仁祖。民衆が強い不信感を抱いたのも当然だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
新潮講座(03-3266-5776)で「トンイも悪女? 韓国時代劇の主人公は史実とどれだけ違うのか」を開催。4月14日、5月19日、6月9日の3回連続講座/すべて13:30~15:00/9,900円(税込3,300円×3回)。会場は神楽坂。「オクニョ」「トンイ」「イ・サン」「ヘチ」の主人公の知られざる真実を解説。詳しくは下のリンクを見てください。
https://kohza.shinchosha.co.jp/shincho/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=203077

光海君(クァンヘグン)はなぜ兄を差し置いて王になれたのか

朝鮮王朝にこんな悲しい世子(セジャ)が5人もいたとは?

朝鮮王朝にはこんな悲惨な王妃が5人もいた!

英祖(ヨンジョ)に米びつに閉じ込められた思悼世子(サドセジャ)はどうなった?

端敬(タンギョン)王后の復位を強硬に反対したのは誰なのか

『七日の王妃』の端敬王后(タンギョンワンフ)はなぜ七日で廃妃になった?

固定ページ:
1

2

関連記事

特選記事

  1. コン・ユ主演で魂の不滅を抒情的に描いたドラマ!/トッケビ全集13

  2. 繰り返し見て深みのあるストーリーを味わう!/トッケビ全集8

  3. 16代王・仁祖(インジョ)はどんな王だったのか

ページ上部へ戻る