明と後金の間で
光海君は危機感を持っていました。
「明は国力が傾いていて、後金には勢いがある。あまりに明に肩入れしすぎると、後金によって滅ぼされる恐れがある」
光海君はそう心配していたのです。
明と後金の1619年の戦いのときも、明は朝鮮王朝に対して援軍を要請しています。
「朝鮮出兵のときにあれだけ助けたではないか。今度はそちらが援軍を出してくれ」というわけです。
確かに、朝鮮出兵のときの恩義があります。しかし、光海君は熟慮の末に、すぐに援軍を出さない決断をしました。後金ににらまれたくなかったからです。
何度も明から催促がきて、最後にようやく最小限の援軍を出しましたが、後金に対しても使者を出して「あまりにも明に言われたので、やむを得ず援軍を出しました。けれど、歯向かうつもりはありません。あくまでも中立でいたいのです」と説明しています。
いわば、明と後金の両方にいい顔をする二股外交です。地政学的に強い国に囲まれた小国が生き残る道が二股外交だったのです。
結果的に、後金が明を滅ぼしますが、朝鮮半島はこの段階では安泰でした。それは、光海君の二股外交の成果であると言えます。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)