張禧嬪(チャン・ヒビン)の歴史エピソードが興味深い

19代王・粛宗(スクチョン)が張禧嬪を王宮の中で見初めたのは1680年頃と言われている。そのとき、粛宗は19歳で、張禧嬪は21歳だった。粛宗の母・明聖(ミョンソン)王后は、張禧嬪を警戒した。欲の深さが彼女の表情に出ていたからだ。





お人好しの王妃

明聖王后は張禧嬪を「息子に悪影響を及ぼす女」と決めつけて、すぐに手を打った。張禧嬪を王宮から追い出したのである。
これに異議を唱えたのが、粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后だった。
「殿下がお好きな女官が宮中にいないというのは、いかがなものでしょうか」
そう言った仁顕王后は、張禧嬪の王宮復帰を明聖王后に依頼した。
あきれたのは明聖王后のほうだ。仁顕王后を見ながら「人がいいにもほどがある」と思い、次のように言った。
「あの女を見たことがないからそう言えるのです。あの女は悪だくみをしそうですから、早めに遠ざけたほうがいいのです」
それでも仁顕王后は張禧嬪をかばった。
「今から心配しなくてもよろしいのでは?」
これほどに仁顕王后はお人好しなのだ。




実際、明聖王后が1683年に41歳で亡くなると、仁顕王后は本当に張禧嬪を王宮に呼び戻してしまった。
張禧嬪にとって仁顕王后は恩人にあたるのだが、張禧嬪は粛宗の寵愛を受けていることに驕って仁顕王后を邪険にした。
その態度があまりにひどいので、さしもの仁顕王后も、ようやく目がさめた。
彼女は粛宗に「あの女はいけません」と忠告したのだが、すでに遅かった。張禧嬪が粛宗の長男を産むと、彼女はますます増長した。こうなると、仁顕王后は亡き明聖王后の言葉をしみじみとかみしめるしかなかった。
一方、粛宗は長男を産んだ張禧嬪にしつこく頼まれて、とんでもないことを言いだした。仁顕王后を廃妃にするというのだ。高官たちが猛反対したが、粛宗は1689年に強行した。そして、空いた王妃の座に側室だった張禧嬪を昇格させた。
この時点で仁顕王后には子供がいなかった。やはり、王の息子を産んだ女性はこれほど重宝されたのである。
しかし、張禧嬪の栄光は長く続かなかった。粛宗が新たに淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになったからである。彼女は、ドラマ『トンイ』の主人公になった女性だ。




淑嬪・崔氏は、ずっと仁顕王后を慕っていた。そういう事情もあり、彼女は粛宗に「どうかもう一度王妃様を王宮に戻してあげてくださいませんか」と懇願した。
粛宗は寵愛する女性の頼みをなるべく聞いてあげるタイプのようだ。彼は1694年に高官たちを集めて、急に仁顕王后を王妃に戻すことを発表した。
高官たちは大反対したのだが、粛宗はそれらをすべて無視して、勝手に仁顕王后の復位を決定してしまった。
張禧嬪は再び側室に格下げになった。こうして仁顕王后が王妃として戻ってきた。彼女には淑嬪・崔氏という強い味方がいた。これで粛宗の息子を産めば立場は磐石になったのだが、病弱であったためにそれは叶わなかった。
それでも、張禧嬪は仁顕王后の動向を常に注視し続けた。仁顕王后が息子を産めば、自分の息子が王になる可能性がなくなるからだ。
結局、仁顕王后は1701年8月に病気で世を去った。その後、淑嬪・崔氏は、張禧嬪が仁顕王后を呪い殺そうとしていたことを告発した。
激怒した粛宗はこう言った。




「王妃が病気になってから2年間、張禧嬪は一度も見舞いに来なかった。それだけでなく、王妃の悪口ばかり言っていた。しかも、部屋のそばに神堂を建てて、怪しげな者たちと変な祈祷をしていた。こんなことが許されるなら、一体、どんなことが許されないと言うのか。張禧嬪を自害させよ」
張禧嬪は世子の母親でもあったので、高官たちは死罪に大反対したのだが、粛宗は絶対に張禧嬪を許さなかった。
張禧嬪はこうして命を絶たれたが、彼女の息子は粛宗の後を継いで20代王・景宗(キョンジョン)になった。死して張禧嬪は一番の願いを叶えたのである。

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