光海君は名君だったのか

明から何度も催促がきて、最後に光海君(クァンヘグン)はようやく最小限の援軍を出しましたが、後金に対しても使者を出して「あまりにも明に言われたので、やむを得ず援軍を出しました。けれど、歯向かうつもりはありません。あくまでも中立でいたいのです」と説明しています。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより



特権階級の反対

いわば、明と後金の両方にいい顔をする二股外交を光海君は採用しました。地政学的に強い国に囲まれた小国が生き残る道が二股外交だったのです。
結果的に、後金が明を滅ぼしますが、朝鮮半島はこの段階では安泰でした。それは、光海君の二股外交の成果であると言えます。
もう1つ、光海君の政治的業績と言われているのが大同法を広めようとしたことです。大同法は、税金を土地の所有に応じて支払うという法律で、直接的に一般庶民の減税につながるものです。両班(ヤンバン)や地主階級には不利になりますが、土地を持たない一般庶民は大歓迎でした。
この大同法を都の周辺から施行しようとしたのが光海君です。しかし、税金が増えるということで、大地主である特権階級から恨まれます。
結局、「明を最後まで支援しなかったこと」「仁穆王后を幽閉したこと」「地主階級に不利な大同法を強行しようとしたこと」などを糾弾されて、光海君はクーデターを起こされたのです。




そういう動きを察知して何らかの手を打てなかったという意味では、光海君にも甘さがあったと思います。結局、彼はクーデターによって廃位となりました。
歴史用語の1つに、「悪い政治を正す」という意味の「反正(パンジョン)」があります。朝鮮王朝の歴史で言うと、1506年に暴君の燕山君を追放して11代王・中宗(チュンジョン)が即位した「中宗反正(チュンジョンパンジョン)」と、1623年に光海君が追放されて仁祖が即位した「仁祖反正(インジョパンジョン)」が有名です。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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