女帝のように王朝を支配した貞純(チョンスン)王后が1805年に世を去りましたが、代わって実権を握ったのが安東(アンドン)・金(キム)氏の一族でした。さらに、政治が混乱していきました。
勢道政治の弊害
安東・金氏の「安東」というのは、一族の流派を示す本貫(ポングァン)のことです。本貫はもともとは始祖の出身地をさす地名のことですが、そこから転じて同族を表す代名詞となりました。
「金」という姓は朝鮮半島で一番人口が多いので、本貫も数多くありますが、その中で有名なのが「安東」「金海(キメ)」「慶州(キョンジュ)」などです。
この安東・金氏の一族が純祖(スンジョ)の治世下で権力を掌握できたのは、一族の娘が純祖に嫁いだからです。
その娘が純元(スヌォン)王后でした。
以後、安東・金氏は一族で要職を占め、政治を私物化していきます。このように、王の外戚が政治を取り仕切ることを「勢道(セド)政治」と言います。権力の独占は弊害が多く、収賄が横行するようになりました。
純祖も黙っていたわけではありません。彼は安東・金氏を牽制するために、豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏を対抗勢力に育てようとしました。その一族の娘が純祖の息子だった孝明(ヒョミョン)世子の妻になったからです。
孝明世子の成長にともなって豊壌・趙氏が安東・金氏を追い落とす勢いを見せたのですが、純祖のもくろみは1830年にはずれました。孝明世子が21歳で急死してしまったからです。
孝明世子はとても優秀で、彼が王になっていれば、朝鮮王朝は政治改革に成功していたに違いありません。本当に孝明世子の早世は惜しまれます。
結局、豊壌・趙氏は勢いを失い、再び安東・金氏が息を吹き返しました。外戚に振り回された純祖は1834年に44歳で亡くなりました。
後継の24代王になったのは憲宗(ホンジョン)です。彼は孝明世子の息子ですが、まだ7歳でした。この幼さでは政治を行なえませんので、祖母にあたる純元王后が摂政を行ないました。結果的に、安東・金氏による勢道政治がずっと続きました。
憲宗は祖母の言いなりになって独自性を発揮できないまま、1849年に22歳の若さで世を去りました。息子がいなかったので、後継者争いが混迷しましたが、純元王后が仰天の奇策を行ないました。没落した王族として田舎で農業をしていた18歳の若者を25代王に据えたのです。それが哲宗(チョルチョン)です。
彼は、漢字すらまともに書けなかったと言われています。そんな無学の青年を王にしたのは、純元王后が自分の思いどおりの政治を続けるためでした。勢道政治の弊害がここにきわまる、という感じです。
純元王后は1857年に68歳で世を去りますが、朝鮮王朝の政治を停滞させた張本人の1人です。
世界はまさに、激動の時代を迎えていました。欧米列強がアジアに進出する中で、朝鮮半島も激流に呑み込まれようとしていたのですが、朝鮮王朝は「相変わらず旧態依然」といった状況でした。
王という自覚がないままに自堕落な生活に溺れていた哲宗は1863年に32歳で絶命します。相変わらず政治を牛耳っていた安東・金氏は、自分たちの操り人形になりそうな人物を王にかつぎました。
それが26代王の高宗(コジョン)です。
しかし、安東・金氏のもくろみは、もろくもはずれました。高宗の父であった興宣大院君(フンソンデウォングン)が非常に有能で、巧みな政治手腕で安東・金氏を政権の要職から次々にはずしたのです。
こうして、約60年間も続いた勢道政治は終わりを告げました。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)