息子がこうむった悲劇
意気消沈した奉氏は、やがて禁断の果実に手を伸ばすことになった。それは宮中で厳禁されていた同性愛だった。
そのことが露見し、奉氏もまた離縁されてしまった。あわれなことに、奉氏も実家に戻ったあとで自害せざるをえなくなった。
2人の妻を不幸な死に追いやってしまった文宗。後継者を作らなければいけない世子として失格なのだが、世宗は怒りを抑えて息子に側室を持たせることにした。
それは複数に及んだが、その中で文宗が一番気に入ったのが顕徳(ヒョンドク)王后だった。
彼女は文宗の娘を産み、1441年には男子を出産した。後の6代王・端宗(タンジョン)である。この出産は世宗を大いに喜ばせる慶事だったが、その直後に不幸が起きた。出産後に体調を崩した顕徳王后が亡くなってしまったのだ。
すでに彼女は正室に昇格していたのだが、文宗は愛妻の死を心から悼み、以後は正室を持とうとしなかった。これは王室では異例なことだった。というのは、王は妻が亡くなったあとにかならず10代の娘を後妻にめとるのが慣例だったからだ。この一事をもってしても、文宗がいかに顕徳王后権氏を寵愛していたかがわかる。
しかし、文宗はわずか在位2年で1452年に亡くなり、後を継いだ長男の端宗は、1455年に叔父の首陽大君に王位を強奪されてしまった。
そのことを文宗は草葉の蔭でどう見とったのか。彼の人生は「不覚」の連続だった。