正祖(チョンジョ)は名君として今の韓国でも尊敬されています。4代王・世宗(セジョン)ほどではないにしても、その次くらいの評価を得ています。政治的な業績もたくさんありますが、特に、身分が低くても才能がある人を抜擢して、将来に夢を持てる社会を築きました。また、学者が顔負けするほど学識に優れ、文化の発展にも寄与しました。
毒殺を恐れていた
正祖は父の思悼世子(サドセジャ)を心から追慕して、花の名所として有名だった水原(スウォン)に父の墓を移して行幸を繰り返しました。
この水原に遷都する計画まで持ち、りっぱな城郭も築いています。そこは今、華城(ファソン)と呼ばれて世界文化遺産になっています。
彼が長寿であれば、さらに多くの政治的業績を残したと思われますが、1800年に48歳で亡くなります。そのときの様子が「朝鮮王朝実録」に詳しく載っています。
実は、王の場合は高熱を発して身体にできた腫れ物に苦しみながら亡くなる人が多いのですが、正祖も同じでした。彼は梅雨の時期に原因不明の高熱に苦しめられ、次第にからだが衰弱していきます。
それでも自分の侍医を信用しておらず、地方から有名な医者を呼んで治療に当たらせています。しかも、侍医が「診察させてください」と言っても、なかなか許可しないのです。おそらく、毒殺されることを恐れていたのでしょう。具合が悪くなっても自分で調合する薬を指示するほどで、極端に周囲の人たちを警戒しています。
そんな中、だんだん病状が深刻になったときに、いきなり看病に出てきたのが貞純(チョンスン)王后です。
貞純王后はこう言いました。
「先王(英祖〔ヨンジョ〕)も同じような病気になったときに、薬をうまく調合したら治った。なぜ同じ薬を出さないのか」
貞純王后は侍医や正祖の側近をさらにどなりつけます。いかにも、正祖の安否を心配しているという姿勢を見せていたのです。
そして、正祖が危篤になったときにまた現れて、「私が看病するから、皆の者は下がっておれ」と命令しました。
これによって、正祖の病床の前は貞純王后だけになりました。当然ながら、側近たちは部屋の脇に待機して、中の様子をうかがっています。
すると突然、部屋の中から号泣する声が聞こえてきました。「大変だ」と側近たちが駆けつけてみると、正祖はもう息絶えていました。
「何ということをなさるのですか」
側近たちは貞純王后に詰め寄ります。王の臨終の場面で立ち会いが1人だけでは大問題になります。
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正祖は貞純王后を処罰しなかった/朝鮮王朝のよくわかる歴史15