11代王・中宗(チュンジョン)には3人の妻がいた。最初の妻は父が燕山君(ヨンサングン)の側近だったために離縁させられた端敬(タンギョン)王后。2人目の妻は12代王・仁宗(インジョン)を産んですぐに亡くなった章敬(チャンギョン)王后。そして、3人目の妻が文定(ムンジョン)王后である。
文定王后が王を毒殺?
文定王后は、若くして亡くなった章敬王后の代わりに仁宗(後の12代王)を育てる立場になった。
しかし、自分の子ではない仁宗を彼女はうとましく思い、常に邪険に扱った。そうした感情は、中宗との間に息子を授かるといっそうひどくなっていった。
義母に憎まれながら王になった仁宗。しかし、文定王后は執拗に彼の命を狙い自分の息子を王にしようと画策していた。
結局、1544年に即位した仁宗はわずか8カ月で世を去った。
文定王后に毒殺されたと言われている。
(ページ2に続く)
『七日の王妃』の端敬王后(タンギョンワンフ)はなぜ七日で廃妃になった?
英祖(ヨンジョ)に米びつに閉じ込められた思悼世子(サドセジャ)はどうなった?