中宗のコンプレックスだらけの王座!

1506年にクーデターで暴君の燕山君(ヨンサングン)を王宮から追放した高官たちは、燕山君の異母弟を次の王位に指名した。それが11代王の中宗(チュンジョン)だった。そんな経緯があったので、中宗はクーデターを成功させた高官たちに頭が上がらない王であった。





理想主義に燃えた儒学者

中宗の悩みは深かった。
なにしろ、クーデターを成功させた高官たちの言いなりになるしかなかったからだ。
そんな情けない王であった中宗がすがったのが士林(サリン)派の官僚たちだった。
この士林派は燕山君(ヨンサングン)時代に弾圧を受けて勢力が衰えていた。しかし、中宗は彼らを復権させて自分の強力な側近にしようとした。この点では、中宗も自分で権力をふるいたいという欲があったのだ。それは、高官たちに頭が上がらないというコンプレックスの裏返しだった。
中宗が士林派の中でも特に目をかけたのが趙光祖(チョ・グァンジョ)である。
彼は理想主義に燃えた儒学者。民を統治する王の心構えを中宗に真剣に説いた。その理念に魅了された中宗は、ますます趙光祖を信任するようになっていった。
そんな趙光祖は、クーデターを成功させた高官たちについて「必要以上に恩恵を受けすぎている」と攻撃した。




それに対し、高官たちの反発が強まった。
高官たちは趙光祖の失脚を狙った。
その実行計画は実に手が込んだものだった。何をしたかと言うと、王宮の庭に生えていた葉っぱの一つに蜂蜜で「走肖為王」という文字を書いたのだ。
しばらくして虫が蜂蜜の部分だけを食べると、鮮明に文字が浮かびあがってきた。「走肖」とは「趙」のことであり、この四つの漢字には「趙光祖が王になる」という意味が込められていた。
この葉を仕込んだ者たちが、意図的に大騒ぎを始めた。
「趙光祖が王位を狙ってわざと葉っぱに細工をしたぞ」
その騒ぎは中宗の耳に入った。
王である自分をさしおいて臣下の趙光祖が王位に就く、という内容には、さすがの中宗も驚いた。
「まさか、あの趙光祖が……」
結局、中宗は趙光祖を最後まで信頼できなかった。




その空気を逃さず、趙光祖の対抗勢力は中宗に訴え出た。
「趙光祖の一派が王位を狙うような動きを見せています。彼らを絶対に排除しなければいけません」
中宗はすっかり疑心暗鬼に陥った。
中宗は、混乱したまま趙光祖の断罪を決断せざるをえなくなった。自分がもっとも信頼した側近だったが、最後まで趙光祖をかばうことができなかったのだ。そういう意味では、中宗はあまりに優柔不断すぎる王でもあった。
趙光祖の処罰が決まると、全国の儒生(儒教を信奉する学徒)が大挙して王宮の正門前に来て趙光祖の無実を訴えた。それほどまで彼が慕われていたことは、むしろ中宗には恐怖だった。このまま趙光祖が政権内部にいれば、人望を生かして本当に王位を奪いかねないからだ。
趙光祖は1519年に死罪となった。
趙光祖を見殺しにするしかなかった中宗は、以後も絶大な権力をふるうことができなかった。




結局、彼の治世は38年も続いた。
しかし、高官たちに牛耳られた「38年間」でもあったと言える。
晩年は病気がちで床に臥(ふ)せっているときが多く、そのまま1544年に失意のまま世を去った。その人生は、王でありながらコンプレックスが多いものだった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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