蘇我氏と物部氏の攻防
それから半年ほど後のことである。
河内の国から報告があった。
「泉郡の海中から、仏教の礼拝時に奏でるような音がしてきます」
欽明天皇は使者を送って調べさせた。
すると、海中から光り輝くクスノキが発見された。
欽明天皇はそのクスノキで仏像二体を造らせた。物部氏の猛反対にもかかわらず、仏教を邪神とみなしていないのだ。何よりも、当時の大陸で普遍的に信仰されているという事実を重んじた。
結局、蘇我氏と物部氏の間で起こった仏教の受容をめぐる対立は、数10年も続いた。つまり、ヤマト政権の主導権をめぐる争いの中で、仏教が一番の争点になったのだ。
やがて、治世は欽明天皇、敏達天皇、用明天皇へと移った。
この用明天皇が在位2年足らずで世を去ってから、その後継者をめぐって蘇我氏と物部氏の対立が一層激しくなった。
蘇我馬子(そがのうまこ)は、蘇我氏の血を引く王族を王位につけようと先手を打った。窮地に陥った物部守屋(もののべのもりや)は、本拠地の河内にいったん退いて、次の決戦に備えた。
攻める蘇我氏、守る物部氏。
物部守屋は師弟と兵士を集めて稲で砦を築いて防御を固めた。そのうえで、上から蘇我軍をめがけて激しく矢を射った。雨のように降ってくる矢におそれをなして、蘇我軍は三度も退却せざるをえなかった。
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