『華政』で描かれた貞明公主の物語「第8回」

病気で偏屈になった王

貞明公主の母である仁穆王后によって、仁祖が起こしたクーデターに大義名分を持つことができたのは事実だ。
仁祖には、仁穆王后に大きな恩があるのだ。
それなのに、仁穆王后の娘を厳しく処罰したら、その影響はどこまで及ぶのか。
究極的にいえば、仁祖の王位の正統性すら危うくなってしまう。
そのことを崔鳴吉はわかっていたので、仁祖に翻意を促したのである。
病に苦しんで性格が偏屈になっているとはいえ、やはり仁祖は貞明公主に濡れ衣を着せては絶対にいけないのである。そのことが功臣たちの総意であった。
それにしても、貞明公主は母の仁穆王后を失ったあと、仁祖の豹変を受けて苦労の連続であった。
それを耐え忍んでいくのだから、やはり芯が強い女性であったのだろう。
仁祖が即位してから13年後、1636年12月に朝鮮王朝に最大の危機が訪れた。
朝鮮半島の北方にあった後金が国名を清に変えてから、10万人以上の兵力で攻め入ってきたのだ。




朝鮮王朝は清の大軍に歯が立たず、朝廷は都の漢陽(ハニャン)を捨てて、南側の南漢(ナマン)山城に籠城した。
しかし、結果は見えていた。結局は、1637年1月に仁祖が漢江(ハンガン)のほとりまで出向いて、清の皇帝の前で土下座のごとき屈辱的な謝罪をした。朝鮮王朝が清に完全に屈伏したのである。
朝鮮王朝は莫大な賠償金を課され、仁祖の息子3人も人質として清に連れ去られてしまった。すべては、仁祖の外交政策の失敗のせいである。
この国難の最中、貞明公主は都の漢陽を離れて、漢江の河口の目の前に浮かぶ江華島(カンファド)に避難した。
このときの有名なエピソードが今も語り種になっている。
(第9回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第1回」

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第2回」

『華政』で描かれた貞明公主の物語「第9回」




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