敬恵王女の没落
1456年、世祖は、「端宗が生きていれば、また歯向かう者が出て来るのではない」と思い、端宗の身分を庶民に降格させた後で死罪にしている。
最愛の弟を失った敬恵王女はとても悲しんだが、このとき彼女のお腹には新しい命が宿っていた。それを知った世祖は、「男の子だったら殺せ」と命令を出した。彼は復讐されることを恐れていたのである。生まれてきたのは男の子だったが、世祖の正室である貞熹(チョンヒ)王后が「男の子が生まれたら私のところへ連れてきなさい」という命令を出していたため、敬恵王女の息子は貞熹王后に預けられた。
そんな辛い経験をした彼女を、さらなる悲劇が襲う。端宗擁護派で都を追われていた夫の鄭悰が、罪人として処刑されてしまった。朝鮮王朝には、罪人の妻は奴婢になるという決まりがあり、敬恵王女は奴婢にまで身分を落とされた。
後年、敬恵王女への仕打ちに負い目を感じていた世祖は、彼女の身分を回復し、王宮のそばに立派な屋敷を用意した。しかし、敬恵王女はその誘いを断って尼になる。仏門に入った彼女は、夫と2人の子供の罪が許されることを願い続けた。
世祖は敬恵王女の願いを受け入れ、彼女の息子には立派な役職を与えた。こうして、敬恵王女は、ようやく安堵することができた。彼女は息子の出世を見届けると38歳の短い生涯に幕を下ろした。
王女として生まれ、奴婢にまで身を落とした敬恵王女の波乱万丈の生涯は、王の娘として生まれることの幸福と不幸の両面を示している。